セナを語る時に欠かせないのが、「アラン・プロスト」というドライバーである。彼もまたセナとは違ったタイプであるが天才ドライバーの一人である。セナが「速い」ドライバーなら、プロストは「巧い」ドライバーである。プロストは緻密で正確なレース運びにより、16戦を通してチャンピオンを獲得するためのレース運びをする戦略家であり、これがプロフェッサーと呼ばれる所以である。
二人の天才ドライバーは、時に罵り合い、憎み合いながらも、お互いを認め合うまさに「ライバル」という言葉にふさわしい存在であった。

1984年3月25日 ブラジルGP – セナとプロストの初対決

1983年にイギリスF3選手権に初挑戦し、全21戦中13勝と圧倒的な強さでタイトルを獲得したセナは、この年の夏、ウィリアムズ、マクラーレン、ロータス、ブラバムといった一流チームのオファーを受けてテスト・ドライブや契約交渉などを行っている。しかし、現実は厳しく、各チームの加入の条件には多額のスポンサー料持ち込みや完全ナンバー2扱いといったものであった。唯一、納得できる条件を提示したのが新興チーム、トールマンである。1984年開幕戦ブラジルGP。セナは自国のレースで、決して一流とは言えない同チームからF1デビューを飾った。

一方のプロストはルノーと訣別し、このシーズンからマクラーレンへと移籍している。予選16番手からスタートしたセナは、ターボ・チャージャーのトラブルによりたった8周でリタイヤし、地元での初レースは散々な結果に終わった。当時、時代はターボ全盛。トールマンもハート製のターボエンジンを使用していたが、速さ、信頼性ともにいまひとつのエンジンだった。セナはシーズンを通してこのエンジンに泣かされることになる。逆にプロストはTAGポルシェという最強の武器を手にして、この年チームメートのニキ・ラウダと熾烈なタイトルを争いを繰り広げた。セナのデビュー・レースを制したのは他ならぬプロスト。トップにたったドライバーが続々とリタイヤする中、生き残っての優勝というプロストらしいレースを披露している。

1984年6月3日 モナコGP – 明暗を分けた「豪雨のモナコ」

1984年第6戦モナコGPを語らずして、セナをそしてセナとプロストを語ることは出来ない。決勝は豪雨の中で決行された。そのためクラッシュするマシンが続出したが、予選13番手からスタートしたセナは、抜群のマシン・コントロールを発揮してみるみる順位を上げていく。19周目には2位まで浮上し、ポール・ポジションからスタートしたプロストに詰め寄る。その時点でプロストとの差は35秒以上あったが、セナは1周あたり3秒ペースでその差をも縮めていく。ところが32周目に入り、突然、競技委員長のジャッキー・イクスがレースの中止を告げるレッドフラッグを振った。すでにスピードダウンしていたプロストのわきをセナが猛スピードで駆け抜けていく。一瞬、セナの大逆転、F1参戦6戦目での初勝利かと思われた。

結局レースは最終ラップの前周、31周目の順位で決定されることとなり、セナのF1初勝利は幻に終わった。あと46周もの周回数を残していたことや、フラッグのタイミングなど、トールマン関係者のみならず抗議の声が上がる結果だった。しかし、そのファイトとテクニックに溢れたセナの走りには大きな称賛がよせられた。また「優勝をもらった」とされるプロストだったが、この年たった0.5ポイント差でラウダにタイトルを奪われている。ポール・ポジションから順調なレース運びをしていただけにこのレースがハーフポイントでなければとも言え、結果的には両者痛み分けの状況だった。

1986年4月12日 スペインGP – 大物の片鱗

この年もマクラーレンのプロストが4勝をあげて総合チャンピオンとなった。しかし、シーズン毎にプロスト、ピケ、マンセルといった当時のトップドライバー達を脅かす存在になりつつあり、予選ではその速さを遺憾なく発揮し、8度のポールポジションを獲得する。しかし、本選ではポルシェやホンダのエンジンにはかなわないレース展開が繰り返された。それでも劣勢に立たされていたルノーエンジンでこの年2勝をあげている。

そのうちの1勝がヘレスで初めて行われたスペインGPである。ポールポジションからスタートしたセナは、ピケ、マンセル、プロスト、ケケ・ロズベルグといった強豪を抑え、非力なマシンでトップを死守する。この年、最強のホンダエンジンを手に入れていたウィリアムズのマンセルは燃料を節約するためレース序盤でスピードがあがらなかったが、30周目から脅威の追い上げに入り、プロスト、ピケを一気に抜き去り、40周目にはついに周回遅れに手間取っていたセナを抜いてトップに躍り出た。しかし、マンセルは残り9周でタイヤ交換のためピットイン。再びセナがトップに立ち、20秒のアドバンテージを得た。セナの楽勝かと思われたが、フレッシュタイヤに交換したマンセルは、3位でレースに復帰するとプロストを残り2周でパス。セナとの差は5.3秒まで縮まっており、マンセルがファイナルラップに入ったときには、さらに3.8秒を縮め1.5秒差まで迫っていた。鬼神の走りを見せるマンセルはついに最終コーナーでセナに並ぶ。セナもアクセル全開でフィニッシングラインを駆け抜ける。その差はわずか0.014秒。並み居る強豪を抑えて勝利した価値ある1勝だった。

レース後、セナとのバトルはなかったプロストが、マンセルを数周抑えてしまったことに対してマンセルにこう語ったとされている。「君が僕を抜こうとしたとき、もっとすんなり先を行かせてやればよかったよ。そうすればセナを抜けたかもしれないな」

1988年5月1日 サンマリノGP – セナ・プロスト時代の幕開け

1988年。マクラーレンのマシンにホンダ・エンジンが積まれ、それをプロストとセナがドライブするという最強のチームが誕生した。統制のとれた組織力を持つマクラーレン。前年ウィリアムズにドライバーズ、コンストラクターズの両タイトルをもたらす原動力となったホンダ・エンジン。F1史上最多(当時)の28勝を誇るプロスト。既に16回ものポールポジションを獲得しているセナ。三拍子どころか、四拍子揃った完璧なチーム体制である。開幕戦のブラジルGPはセナが失格するという思わぬハプニングがあったものの、続くサンマリノGPは見事なパーフェクトウィン。予選ではセナ、プロストが3位に2秒以上の差をつけてフロント・ロウを独占。決勝では3位を周回遅れにする圧倒的な速さでセナが勝利を収めた。いよいよセナ・プロスト時代の幕は上がった。

1988年9月25日 ポルトガルGP – 確執の発端

1988年のマクラーレンは明確にジョイント・ナンバー1制を表明してシーズンに臨んでいた。そして、マクラーレンだけがずば抜けた強さを誇っている以上、当然2人のドライバーだけがタイトル争いを繰り広げることになる。ここまで抜群のチームワークで1位と2位を分け合ってきたかに見えたセナとプロストが、相手がタイトル争いの「敵」であることをはっきりと打ち出したのはポルトガルGPだった。6戦ぶりにポールをとったプロストだったが、スタート直後にセナにトップを奪われる。しかし、1周目の終わりにプロストはホームストレートで再びセナに並ぶ。セナは幅寄席してピットウォール側へと押し込めた。

実は、オープニングラップでイン側のスターティング・グリッドからスタートしたプロストは、スタート直後にセナをコース外側へはじき出すような幅寄せを行っており、これが1周目終わりのセナの行為を誘発したとも言われている。プロストはこのバトルに打ち勝って1位でフィニッシュ。セナはトラブルを発生させ6位という結果に終わったが、これが2人の確執の始まりとなった。

1988年10月30日 日本GP – セナ、初栄冠

もはや伝説と化していると言っても過言ではないのが88年の日本GPだ。前戦のスペインGPを終了してプロストのポイントは90点(うち当時採用されていた有効ポイントでは84点)。一方のセナは79点。セナが初のドライバーズチャンピオンになるためには、どうしてもこのレースで優勝しなければならなかった。

予選ではたったひとり1分41秒台というスーパーラップをたたき出してポールを獲得したセナだったが、決勝のスタートでエンジンをストールさせてしまう。緩やかな下り坂になっている鈴鹿のホームストレートのおかげで、なんとかマシンは動き出したものの、あっという間に十数台のマシンが抜き去っていく。

トップを行くのは予選2位からスターとしたプロストである。しかし、手負いの獅子と化したセナは、ここからすさまじい追い上げを見せる。1周目の終わりには早くも8位まで浮上。降りだした雨をむしろ見方につけて11周目には3位、20周目にはプロストの背後までやってきた。27周目、プロストはシケインで周回遅れに出会い、最終コーナーの立ち上がりに手間取った。すかさずセナはプロストの背後から抜け出し、ついに1位へと躍り出た。セナ1位、プロスト2位でレースはフィニッシュ。こうしてセナは念願の初タイトルを手にしたのだ。5年目のシーズン、デビューから78戦目。セナにふさわしい極めてドラマチックな初タイトル獲得だった。

1989年4月23日 サンマリノGP – 破られた紳士協定

ターボエンジンが禁止されNAエンジン元年となった1989年、セナとプロストはシーズン序盤から激しいせめぎ合いを展開した。当初2人の間では、共倒れを防ぐため「スタートで前に出た方が先に1コーナーに進入する権利を持つ」という紳士協定があったという。

ところが第2戦サンマリノGPで早くもこの協定が破られる。スタート直後、予選2位からトップにたったプロストを、セナが抜き返しそのまま1コーナーへ飛び込んだのだ。レースはそのままワン・ツー・フィニッシュで幕を閉じたが、プロストはセナへの非難を公言。セナに言わせれば「スタートを切ったあとにこちらが前に出たのに、それをまたわざわざ譲って先に行かせるなんて!そんなばかげた約束をした覚えはないよ」ということになる。このシーズンもマクラーレン・ホンダはダブルタイトルを獲得するに至るのだが、結果とは裏腹に、チーム内は2人の確執に悩まされ続けることになる。

1989年10月22日 日本GP – 悪夢のシケイン

最も恐れていた事態が1989年の日本GPで現実のものとなってしまった。またしてもセナ、プロストだけがタイトル争いをするシーズンとなり、その決着は鈴鹿でつけられることになった。シーズン終盤に入ってから不運なリタイヤが続いていたセナは日本、オーストラリアと連勝するしかない。逆にそんな立場のセナや、チーム体制、エンジンについて非難を続けてきたプロストが、圧倒的に有利な立場にいるという何とも皮肉な形で決戦の日はやってきた。予選2位から好スタートを切ったプロストは、快調なペースでトップを走る。セナも必至で追いすがるものの、追い抜くには至らない。運命の47周目、場所はシケイン。ここしかないとばかりにセナはプロストのインをつく。プロストも一歩も引かず2台は絡んでストップ。セナは再び走り始めたものの失格。そればかりか危険なドライバーというFIAからの裁定まで下されることになる。

1990年9月30日 スペインGP – 「プロフェッサー」面目躍如

1990年、プロストは長年在籍したマクラーレンからフェラーリへと移籍。2人はチームを分かれて3度目のタイトル争いを繰り広げることになった。重いV12エンジンで加速性能に難があるものの、操縦性が良く、プロスト加入でさらに戦闘力を高めたフェラーリ。ホンダの究極のV10エンジンとその能力を100%引き出せるセナがいるものの、操縦性の悪さを指摘されるマクラーレン。そうした構図で1990年シーズンの戦いは進んだ。

13戦を終えてセナは6勝、プロストは4勝。第14戦スペインGPでセナが勝てば、日本GPを待たずしてセナ2度目のドライバーズチャンピオンが決定する。前年は逆にプロスト絶対的有利でシーズンは終盤を迎えていた。スペインGPの舞台、へレスサーキットはテクニカルな中速コース。予選ではドライバビリティに優れたフェラーリが有利と見られていた。しかし、ポールを獲得したのはセナのほうだった。なんとか予選2位を確保したプロストはレースセッティングにすべてを賭けて決勝に臨んだ。明暗を分けたのは26周目のタイヤ交換だった。トップを行くセナの背後につけていたプロストだったが、先にピットイン。セナも次の周には迅速なピットワークでタイヤ交換を済ますが、コースに戻ったときプロストが一瞬前に出た。プロストはタイトルへの執念を落ちついたレース運びに変え、セナを抑えきって優勝。その発言や政治的な動きで評価を落としつつあったプロストが本業で名誉を挽回したレースだった。

1990年10月21日 日本GP – 悪夢再び

同じ鈴鹿の、同じセナ、プロストの接触でありながら、1989年とは違うショッキングさを持っていたのがこの激突である。予選では、ポイント上でも絶対的優位にあるセナがひとり1分36秒台でポールポジションを獲得。追うプロストも2位にはつけたものの、優勝するかセナを抑えての2位入賞で、ようやく最終戦にタイトル争いを持ち込めるという苦しい状況である。しかし、決勝のスタートでプロストは好ダッシュ。不利なプロストがセナの前に出たことでスリリングなレース展開を予感させた。しかし、次の瞬間、セナが強引にプロストのインをつく。2台は接触してもつれ合うように1コーナーの外へとコースアウトした。あっけなく、後味の悪い形でセナ2度目のドライバーズチャンピオンが決定した。

これまで、特に日本人の一般的なファン感情として「逆境にもめげないフェアプレー精神の持ち主」といったイメージで捉えられてきたセナである。故意ではなかったとしても、この結果に失望したファンも少なくなかった。ただし、こうした「欲しいものはなにがなんでも奪う」といったエゴイスティックな本能を呼び覚ましたのは他ならぬプロストだったとは言えないだろうか。プロストによる様々な形でのセナへの「攻撃」が、セナのなかに眠っていた「プロスト的要素」を引き出してしまったということだ。あるいは、あのような瞬間には名誉やお金やタイトルではなく、とにかく目の前の獲物に飛びついてしまう本能をセナも持っていたということなのかもしれない。いずれにしても、この一件を契機にセナもかなりエゴイスティックな感情を剥き出しにするようになったことは間違いない。

1991年7月28日 ドイツGP – プロスト解雇


1991年に入るとフェラーリは精彩を欠くようになる。プロストは3回の2位入賞があったものの、一度も優勝を手にすることができなかった。強いてセナとの対決を挙げれば、プロストの地元フランスGPでの2位、3位争いということになる。

プロストらしさが全く感じられなかったのはこの年のドイツGP。フェラーリが今シーズン投入した642は明らかに失敗作だったが、フランスGPから投入されたニューマシンの643により戦闘力は向上し、フランスGPでは今シーズン初めてプロストが予選、決勝ともにセナを抑えることに成功している。一方、セナは前半戦こそ開幕4連勝と圧倒的な強さを見せたものの、カナダGPでシーズン当初から熟成が進んでいたウィリアムズにフロント・ローを独占されて以来、マクラーレンのアドバンテージはなくなり、常にウィリアムズがレースの主導権を握るようになる。ドイツGPでも同様、ウィリアムズのマンセルとパトレーゼが悠々と1位、2位を独占して後続を突き放すレースを展開し、その後ろでセナとプロストのバトルが展開された。隙あらば前に出ようとするプロストと、懸命に抑えるセナ。スタート直後から続いたバトルは、残り8周となった38周目にプロストがしびれを切らしたように、シケイン進入でアウトからセナを抜きにかかった。しかし、セナはそれをブロック。その結果、プロストはシケインを通過できずショートカットを試みるが、後続車がいたためにマシンを止めてしまった。プロストは明らかに速いマシンだったにもかかわらず、一度もセナを抜くことなくリタイヤするという「プロフェッサー」とは思えない走りをさらけ出してしまった。プロストは、レース後にテレビ番組で「セナは危険なドライバー」であるというコメントはしたものの、セナとのバトルで完全な敗北を喫したことは誰の目にも明らかだった。

昨シーズンが16戦中4度しかなかったリタイヤが、今シーズンは7度も記録し、プロストは走らないマシンを常に批判し続けた。そして10月29日、最終戦を待たずプロストは突然解雇されることになった。結局翌シーズンのシートも確保できず1992年は休養することとなった。

1992年10月20日 日本GP – ライバル不在のシーズン

1992年、セナはプロスト不在のシーズンを迎える。プロストはフェラーリを去り、1年間の休養生活に入っていた。前年に通算3度目となるワールドチャンピオンを獲得したセナの独壇場になると思われたシーズンだったが、主役はウィリアムズ・ルノーだった。ウィリアムズは史上最強のアクティブ・サスペンションを開発し、圧倒的な強さで他チームの追随を許さず、開幕戦の南アフリカGPからサンマリノGPまで5連勝を遂げていた。6戦目のモナコGPではモナコマイスターの称号にふさわしい意地を見せ、マンセルの6連勝を阻止したものの、セナの力を持ってしてもマシン性能の差は埋めることができなかった。シーズンを通してマシンに苦しめられたセナだったが、追い討ちを掛けるように9月に長年共に戦ってきたホンダのF1撤退が発表された。ホンダの母国最後のグラプリをいい形でフィニッシュさせたかったセナだったが、3周目でエンジン・トラブルによりあえなくリタイヤ。今シーズンのマクラーレン・ホンダの不調を象徴するようなレースだった。

ホンダのいないマクラーレンでは戦えないことを誰よりも良く知っていたセナは、圧倒的な強さを見せたウィリアムズのシートを望んでいた。しかし、1993年のウィリアムズのシートを獲得していたのは、宿敵プロストだった。

1993年3月10日 南アフリカGP – 新たなる対決のラウンド

ホンダ・エンジンを失ったマクラーレンでセナは苦しいシーズンを迎えることになった。1993年、開幕戦南アフリカGP。プロストはブランクを感じさせない走りで復帰第1戦に勝利。しかし、セナも非力なカスタマー仕様のフォードV8を搭載するマクラーレンで2位という健闘を見せた。続くブラジルGPでは、天が味方したような劇的な展開でセナが優勝。さらにヨーロッパGPでは天候に翻弄されためまぐるしいレースを、またしてもセナが制した。

しかしヨーロッパGP直後に、プロストが「セナ達の勢いは長続きしない!夏の戦いを見てくれ」と言ったように、セナは総合力で勝るウィリアムズには歯が立たず、モナコGP以降、日本GP、オーストラリアGPでの優勝を除けば表彰台にすら上れなかった。ただ以前のように政治的な駆け引きなどなく、レースで実力をぶつけ合う、新たなる局面を迎えるシーズンとなった。

1993年11月3日 オーストラリアGP – 和解

セナとプロストはそのドライビングだけではなく、互いの人生観、価値観すべてをぶつけ合い、憎しみ合った。その象徴が1990年日本GPでも衝突事件だったのである。この事件は二人の確執のすべてを象徴していたと言っていい。レースのライバルだけではなく、政治の世界でもぶつかり合ったのである。だが、この1990年のレースでセナはF1界からトップレーサーとして認知され、プロストはその地位を失った。そしてその後、セナはF1界の王者として君臨する。しかし、プロストのしぶとさは想像以上で、1992年の1年間は休養したものの1993年のウィリアムズのシートを獲得、マシン的に劣るセナに打ち勝ち、4度目のワールドチャンピオンを獲得してしまったのである。

だが、セナにとってプロストの存在は皮肉にも自身の勝利への意欲を最もかき立ててくれるものだった。1993年のシーズン、既にチャンピオンが決定した最終戦のオーストラリアGPで、セナが最後の意地を見せ、プロストを抑え、優勝した時、プロストは心からセナを祝福し、セナも「二度とプロストを批判することはないだろう」と語った。セナはプロストとの戦いの中でF1の技術を磨き、人間的な成長を遂げていったのである。

1994年になってプロストはルノーと契約を結び、ルノーの自家用車の宣伝広報の仕事に就き、ウィリアムズ・ルノーのマシンを駆るセナと同僚となった。セナの最終戦となったサンマリノGPに、実はプロストもルノーの一員として顔を出している。予選走行中のセナに、プロストは無線で呼びかけた。「やあセナ、調子はどうだい。そろそろ勝ってくれよ」この時、セナは次のように語った。「アラン、君がいなくなって本当に寂しいよ」。