1984 Photo by PSParrot
念願だったF1入りはこの年、トールマン・ハートの新人ドライバーとして14戦に参戦し果たされた。1981年にイギリスF.F.1600クラス総合チャンピオンとなり、この頃から天才ドライバーとしてヨーロッパで注目され始める。1983年にはイギリスF3王者となり、F1入りの夢が現実になった。F3時代から「2位になるのは死ぬほどいやだ」と公言。予選で1位になりながら、本選ではクラッシュすることもしばしばあった。トールマン・ハートはマシンの総合力としてはとても優勝をねらえるチームではなかったが、それでも強引に上位を狙うセナのドライビングは高く評価された。
デビュー戦のブラジルGPはリタイヤしたが、2戦目の南アフリカGPではいきなり5位入賞。このとき、セナは疲労のためマシンに乗ったまま失神し、メカニックに助け出されるというエピソードを残している。
「F1にセナあり」を知らしめたのは、第6戦モナコGPであった。レースは豪雨のなかで決行され、クラッシュするマシンが続出したが、セナは抜群のマシン・コントロールでみるみる順位を上げ、2位に浮上した。しかしレースは赤旗でレースは中止、惜しくも初優勝をあげることはできなかった(詳細は「明暗を分けた豪雨のモナコ 」を参照)。デビュー時からモナコのような難しいサーキットで、そのテクニックは輝いていた。この年の活躍で、翌1985年にロータスに移籍することになった。
ドライバーズ・チャンピオンシップ: 9位(13ポイント) 平均獲得ポイント: 0.81
1985 Photo by Jerry Lewis-Evans
戦闘能力ではウィリアムズ、マクラーレン、フェラーリに劣るものの、やっと勝負になるマシンを得たセナは、早くも大物の片鱗をちらつかせる。初戦のブラジルGPはリタイヤしたものの2戦目のポルトガルGPで早くもF1初勝利を挙げる。しかも、ポール・ポジションからの優勝、そしてファステスト・ラップも記録するという完全優勝だった。「どうしてそんなに大騒ぎするんだい。僕は優勝するつもりでこのチームに来たんだ。まるで僕が勝てるとは思わなかったみたいじゃないか」と、セナは勝利に大喜びする監督のピーター・ウォーに対しジョークを飛ばしている。
その後、マシンの不調でなかなか勝てなかったが、それでもポール・ポジションはこの年通算7回も獲得し、13戦目のベルギーGPで2勝目を上げており、総合ポイントでも4位に入った。
この年優勝したのが、その後のライバルとなるアラン・プロストだった。マクラーレンTAGポルシェに乗って5勝を挙げ、初の世界チャンピオンとなっている。だが、そのプロストはセナの才能を当時から認めており、「セナはいつか私の強力なライバルになるだろう」と語っている。ロータスのマシンがもう少し熟成していたら、この年からセナはプロストをもっと脅かしていたに違いない。
ドライバーズ・チャンピオンシップ: 4位(38ポイント) ラップリーダー周回数: 270周(26.19%) 平均獲得ポイント: 2.375
1986 Photo by Dima Morozo
この年もアラン・プロストがマクラーレンTAGポルシェを駆って4勝を挙げ、総合チャンピオンとなった。セナは既に「F1界ナンバーワンの才能」と認められながらも、相変わらず戦闘能力の劣るロータスのマシンに悩まされ続け、どうしてもマクラーレンとウィリアムズのマシンには届かなかった。特にエンジンには不満を持ち、ホンダエンジンのうっとりするようなパワーでセナを追い抜くターボマシンを見て「ホンダのエンジンが欲しい」と強く思うようになっていた。
それでもスペインGPではナイジェル・マンセルの追撃をゴール寸前で振り切って優勝を果たし(詳細は、「大物の片鱗 」を参照)、アメリカGPでもポール・トゥ・ウィンを決めている。マシンの力では完全に劣っていながら、マクラーレン、ウィリアムズの2強を脅かすそのスピードは全世界の注目を集めた。
ただ、セナ本人は「1周だけならルノーは申し分ないエンジンだよ。でもタイトルにはほど遠い。」と、ロータスサイドにエンジンの改良を求め続けた。その執念が翌1987年のホンダエンジンの獲得につながった。この頃から「セナは最強のマシンを与えたら誰も追いつけないだろう」と言われるようになった。
ドライバーズ・チャンピオンシップ: 4位(55ポイント) ラップリーダー周回数: 135周(12.93%) 平均獲得ポイント: 3.438
1987 Photo by Dima Morozo
念願のホンダ・エンジンを獲得する。この前年の1986年からホンダはF1に本格参戦しておりウィリアムズにエンジンを供給していたが、中嶋悟と共にロータスにもエンジンを送り込むことになる。セナとホンダの歴史的な出会いであった。また中嶋悟もセナとジョイントし、初の日本人ドライバーのF1フル参戦を実現し、日本にとってもF1新時代のスタートとなった年である。
しかし、ロータスのシャシーは新しく導入したアクティブ・サスペンションが障害となり、ホンダのエンジンを活かしきれずにいた。さらにロータスは恒常的な資金難に悩まされており、ホンダとマクラーレンとの間には密かに交渉が進められていた。
セナはロータス・ルノー時代、1985年に7度、1986年にも8度のポール・ポジションを獲得しているが、この年はわずか1度のポール・ポジションしか獲得していない。それでも得意のモナコGPでは優勝、次のアメリカGPでも優勝と、初の2連勝をマークした。
ウィリアムズのネルソン・ピケが総合チャンピオンに輝き、ナイジェル・マンセルが2位。セナは3位に入り、プロストが4位という結果に終わった。しかし、セナは満たされていなかった。イタリアGPにおいて1988年マクラーレンのチーム体制が発表され、エンジンはホンダ、ドライバーはプロスト、セナのジョイント・ナンバーワン制になるというものだった。
ドライバーズ・チャンピオンシップ: 3位(57ポイント) ラップリーダー周回数: 108周(10.70%) 平均獲得ポイント: 3.563
1988 Photo by JJ Adamson
セナにとっては歴史的な年となった。この年、ウィリアムズにエンジンを供給していたホンダがマクラーレンにパートナーをチェンジした。そして、ワールドチャンピオンのアラン・プロストにセナをジョイントさせ、最強のチームをつくったのである。
セナはプロストとジョイントNo.1という扱いを受けたが、本質的にはやはりプロストがナンバー1でセナがナンバー2だった。だが、セナは最速のマシンを得てその力を思う存分に発揮する。
この年、サンマリノGPから始まって8勝を挙げ、7勝のプロストを抑え、初のワールドチャンピオンに輝いたのだ(詳細は、「セナ、初栄冠 」を参照)。このときの感激をセナは次のように語っている。「あの日フィニッシュラインを超えてレースに優勝した瞬間こそ、僕の生涯最高のときだった」。
しかし、このタイトルはプロストをいたく刺激し、その後のプロストとの長い確執を生むことになった。プロストは「ホンダは自分よりセナにいいエンジンを与えている」と批判し、セナを敵対視するようになる。それがF1全体を盛り上げる皮肉な結果になるのだが、セナの心は大いに苦しめられた。
ドライバーズ・チャンピオンシップ: 総合優勝(90ポイント) ラップリーダー周回数: 552周(53.64%) 平均獲得ポイント: 5.875
1989 Photo by madagascarica
1988年に初のワールドチャンピオンに輝き、いよいよセナ時代の到来か、と思われたが、この年はプロストにチャンピオンを奪われてしまう。セナはわずか3度のレースを除いて、すべてのレースでポール・ポジションを獲得しながら、本選では6度の優勝しか果たせず、4勝しかしていないプロストにタイトルを奪われてしまう。
衝撃的だったのは日本GP。タイトルを賭けて争っていたプロストとセナがシケインで衝突(詳細は「悪夢のシケイン 」を参照)。プロストはリタイヤしたがセナは走り続けて1位でゴール。だが、シケインの通過マークをきちんと通過しなかったと判定され、失格になる。結局、この失格が尾を引いてセナはチャンピオンの座を明け渡すことになってしまったのだった。
この頃のプロストとセナの争いはヨーロッパ対非ヨーロッパの争いとまで言われ、大変な騒動を引き起こしていた。プロストはますますテクニックを発揮し、セナはスピードに打ち込む。そんな2人の図式が確立した年だった。
ドライバーズ・チャンピオンシップ: 2位(90ポイント) ラップリーダー周回数: 487周(46.87%) 平均獲得ポイント: 3.75
1990 Photo credit: Driving.ca
この年、プロストがセナとのジョイント・ナンバーワンの扱いを蹴ってマクラーレンからフェラーリへ移籍し、とうとうセナとプロストの争いはドロ沼化する。戦闘能力としてはマクラーレン・ホンダがフェラーリより上だったが、フェラーリもマシンの出来が良く、二人の争いはまさに熾烈を極めた。
そして、また日本GPで事件は起きた。総合ポイントでトップを走るセナに逆転可能な位置まで追い上げてきたプロスト。すべては日本GPの結果にかかっていた。だが、第1コーナーのカーブでセナとプロストがスタート直後にいきなり衝突(詳細は「悪夢再び 」を参照)。両者ともリタイヤであっさりとセナのワールドチャンピオンが決まってしまった。この時、セナは「1989年の報復としてわざとプロストにぶつけた」と非難され、非常に苦しい思いを味わう。だが、セナの速さはこの頃から神がかっており、たとえプロストが同じマシンに乗っていてもと手も届かなかった、というのは誰もが認める事実だった。
ドライバーズ・チャンピオンシップ: 総合優勝(78ポイント) ラップリーダー周回数: 556周(52.85%) 平均獲得ポイント: 4.875
1991 Photo by Stuart Seeger
フェラーリは642のマシンの完成度をさらにアップさせており、マクラーレンのMP4/6がどこまで優位性を保てるか、というのが91年のシーズンだった。しかし、開幕のアメリカGPでセナは脅威的な走りを見せ、優勝。その後モナコGPまで4連勝する圧倒的な強さを見せた。プロストはこの序盤戦で闘争心を失い、フェラーリのスタッフ批判を繰り返し、結局、この後、1年間の休業を選択する。だが、セナもマクラーレンのシャシーに満足をしていなかった。マクラーレンのスタッフと何度か衝突し、次第に孤立を深めていった。
セナにとって最も嬉しかったのは母国ブラジルGPで初めて優勝したことだろう。今までどうしても勝てなかった母国での初勝利にセナは興奮して、表彰台では自らシャンパンをかぶって喜びを表現した。このレースで、セナのマシンのギアボックスが壊れ、最終的には6速しか使えない状態になっていた。それでもセナはマシンを操り、ゴールにたどり着いたのだった。
ドライバーズ・チャンピオンシップ: 総合優勝(96ポイント) ラップリーダー周回数:466周(47.55%) 平均獲得ポイント: 6
1992 Photo by Iwao
三度のワールドチャンピオンに輝いたセナの最大のライバルである三度のチャンピオンの記録を持つプロストは1年間の休養を宣言しておりサーキットにはいない。セナにとって楽に勝てる1年だったはずだが、新たなライバル、ウィリアムズルノーが出現したのだ。ウィリアムズは回転と耐久性のいいルノーV10をスムーズに駆使するすばらしいマシンFW14を熟成させ、そのアクティブサスペンションは信じられない威力を見せつけていた。逆にこれまで絶対のポテンシャルを誇っていたマクラーレンはシャシーの熟成に苦しんだ。
結果、ウィリアムズルノーのナイジェル・マンセルが圧倒的な強さを見せ、セナは総合4位という屈辱を甘受することになってしまった。しかし、マンセルの6連勝を阻止したモナコGPの優勝は高く評価されるし、3勝を挙げ、F1グランプリを盛り上げた。この年、セナと6年間コンビを組んできたホンダがF1撤退を表明、セナは深い落胆に包まれた。そしてホンダをあっさりとあきらめたロン・デニスに対する不信感も募らせており、翌年の契約をマクラーレンと結ぶのかどうかもわからない状態であった。
ドライバーズ・チャンピオンシップ: 4位(50ポイント) ラップリーダー周回数: 95周(9.17%) 平均獲得ポイント: 3.125
1993 Photo by Martin Lee
F1のサーキットにプロフェッサーが戻ってきた(詳細は「新たなる対決のラウンド 」を参照)。絶対の信頼性のあるマシン、ウィリアムズルノーをドライブする計画を立て、1年間サーキットを離れていたプロストが4度目のワールドチャンピオンをねらってカムバックしたのである。
それに対し、セナはマクラーレンとの契約がまとまらず、一戦毎のスポット参戦という不自由な形でのサーキット入りを余儀なくされた。マクラーレンが新しく手に入れたエンジンはフォードV8で明らかにルノーV10よりも劣るパフォーマンスしかみせられない。それでもセナはブラジルGP、ヨーロッパGPと2連勝し、プロストをあわてさせた。モナコGPでも、5連勝となる優勝を果たし、マシンにしがみついた。プロストに意地を見せた。しかし、やはり総合的な優位性には勝てず、結局、プロストが四度目のワールドチャンピオンになる。この年のオフ、マクラーレンからウィリアムズへの移籍を発表。再び、最強マシンを手に入れた。
しかし、FIAはこれまでウィリアムズの絶対的な優位を保っていたハイテク装備を禁止するレギュレーションの変更を発表した。
ドライバーズ・チャンピオンシップ: 2位(73ポイント) ラップリーダー周回数: 290周(27.75%) 平均獲得ポイント: 4.563
1994 Photo by Ben Sutherland
レギュレーションの変更でセナのウィリアムズはもう絶対の存在ではなくなっていた。代わってベネトンのフォードが優位性を見せるようになっていた。
セナはブラジルGP、パシフィックGP、サンマリノGPとすべてポール・ポジションを奪いながら、本選ではリタイヤした。パシフィックGPをリタイヤで終わった後、「僕のF1はサンマリノから始まる」と意気込みを見せていた矢先の事故(詳細は「イモラの悪夢 」を参照)だった。セナにとってライバルに成長したシューマッハは開幕2連勝と絶好調をアピールしていた。アクティブサスペンションを失ったウィリアムズは明らかに動揺していた。最強マシンを再び手に入れたはずのセナはこの誤算に心が落ち着かなくなっていた。
通算41勝はプロストに次ぐ2位(当時)だが、セナはこの記録を伸ばし、プロストを追い抜くつもりでいた。1994年のグランプリでセナがこの後どんなレースを見せ、シューマッハを追いつめていくかが焦点だった。
サンマリノGP中のクラッシュにより致命傷。18時40分、マジョーレ病院にて死亡。