アイルトン・セナを偲んで

アイルトン・セナ 没後25年に寄せて

彼がこの世を去ってから四半世紀。当時の記録は今日のようにデジタル化されていないが、記憶は少しも色褪せない。それほど彼の存在が強烈だった、ということだろう。

事故死の次のレースはモナコだった。ポール・ポジションは空席でブラジル国旗がプリントされていた。ここぞという時の集中力、判断力、他のドライバーの追随を許さず、まさに彼の指定席だった。一番にチェッカーを受けることを誰よりも強く望んだ。

それ故に時には行き過ぎた言動もあり今風に言えばよく炎上もあった。しかしそれは実力のある若者が古めかしい体制へ挑んでいくのであり、そうした姿に共感を覚えて自分を投影していたような気がする。

翻って25年後の今の自分が古い体制側の人間になっていないかとハッとさせられた。もし彼がまだ生きていたなら、一体どんな活動をしていたのだろうか。

令和元年5月1日

没後24年に寄せて

あれから24年。いつのまにか彼をはるかに上回る年齢となり、髪の毛には白いものも目立つようになってきた自分に気がつく。

しかし、いまだに彼が自分に与えてくれたものが何なのか理解できていない。「感動」や「夢」という言葉にしてしまうと青臭いし、「憧れ」では強烈な違和感がある。ただ間違いないのは彼は私のアイドルであるということだ。

このサイトの前身は95年頃、大学のWWWサーバーに個人のアドレスを割り当ててもらって開設。卒業とともに大学サーバーからは削除され、出現し始めていたISPのサービスに移転。2001年には現在のドメインを取得し、CGIやFlashなどを使用したサイトに更新。そしてこの度のサイトリニューアルは、前回のメジャーアップデートから実に16年も経過していた。

後にも先にも彼ほど世界から愛されたスポーツ選手はいないだろう。リアルタイムで知らない、F1を知らなくても「アイルトン・セナ」は知っている。彼の記憶はまだまだ色褪せない。

2018年5月1日

アーカイブ

1992年 ホンダのF1撤退発表後のセナ

1984 モナコ

“僕たちはいつも限界で闘っている”

We’re all on the limit, the chassis and the car is on the limit, the human being is on the limit. That’s what it’s all about motor racing, that’s what it’s all about formula one.
(1989年11月2日、アデレード)

“I love you all, SAYONARA”

1992年にホンダがF1撤退を表明し、最後の鈴鹿サーキットで無念のリタイヤに終わった後に残したメッセージ。
(1992年10月25日、鈴鹿)

“Olé, Olé, Senna”

モルンビー競技場で行われていたサンパウロ対パルメイラのサッカーの試合でセナの事故死が伝えられた際の大観衆

ゲストブック


Photo by ALENICO FUSARELLI

あなたもアイルトン・セナの思い出を綴りませんか?

 
 
 
 
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88 entries.
ACCD wrote on 2007年3月10日 at 6:57 PM:
1994年のフジテレビF1中継で サンマリノグランプリの予選と決勝のDVDかビデオを持っている方はいないでしょうか?持っていたら無償でDVDなどにコピーして送っていただけないでしょうか? 無償で出せるという方は右のアドレスに送ってください。お待ちしております。
アイルトンタカ wrote on 2006年4月20日 at 3:43 AM:
もうすぐサンマリノですね。 このサイトを見てセナの事を強烈に思い出しました。 シューマッハにはPP記録を更新して欲しい思いと そうでない思いが交錯してしまいます。 個人的にはセナ→シューマッハ→アロンソと受け継がれるのではなく セナ→シューマッハ→ブルーノ・セナと受け継がれて欲しい気もします。 貴ノ花→千代の富士→貴花田(貴乃花)の図式みたいに ブルーノセナがF1に登ってくるまで、シューマッハには がんばってほしいです。そして、ブルーノセナに敗れてシューマッハは引退。 ちょっとファンタジー入ってすみませんでした。
一人のファン wrote on 2006年4月19日 at 1:36 PM:
懐かしい日々が蘇り、しばし心地よく、また悲しい想い出に耽っておりました 人の歴史を思いました 有り難うございました PS:1993年のエンジンはHONDAではなくFORDだったと記憶しています
Admin Reply:
ご指摘ありがとうございました。修正いたしました。
SuperK wrote on 2006年4月8日 at 12:11 AM:
全部のメッセージを読ませて貰いました。インターネット上のメッセージを読み涙を流したのは初めての経験でした。事故からもうすぐ12年、このゲストブックに「記録は塗り替えられるが記憶は塗り替えられない」とありますが、名言です。イモラでの事故の瞬間はTVで見ており、記憶に強烈に残っています。2002年秋、ブラジルサンパウロのセナのお墓を訪れました。その時花を携えていったのですが没後8年経過していたのにもかかわらず沢山の花が供えてあり感動しました。今年3月イモラも訪れタンブレロコーナーの先のコンクリートウォールの所にも行って来ました。12年を経過した今でも花とメッセージが沢山供えてありました。このゲストブックにメッセージを残されている皆さんは勿論、世界中のセナファンの記憶の中に確実にセナは存在しています。
にっし wrote on 2006年1月30日 at 3:32 AM:
今でもセナは鈴鹿のコースをホンダミュージックを響かせながら走ってますよ。コースレコードを連発しながら。
taka wrote on 2005年11月2日 at 9:58 PM:
とてもいいサイトですね。作成中の物楽しみにしてます!!
イッチー wrote on 2005年10月15日 at 6:38 PM:
素晴らしいサイトだと思います。セナの生涯が詳しくのっていて、見ていて思わず感動してしまいました。セナは僕らに勇気をくれたHEROだから、これからもこのサイトをぜひ充実させていって下さい。プロトスとのムービーも早く見たいです。
こつえ wrote on 2005年10月10日 at 12:13 AM:
今日久し振りに日本GPをTVにて観戦しました。あの日からF1を見る事をさけていました。今日久し振りにF1を見て、無償にセナに会いたくなり、ここまでたどり着きました。セナは私にとって、いえ・・みんなにとって永遠ですね。あの日のことは一生忘れることが出来ません。これから今まで私が集めてきたセナの思い出の品々を(あの日以来しまっておいたもの)を久し振りにあけてみようと思っています。
KEI wrote on 2005年10月3日 at 2:45 PM:
初めまして、こんにちは。以前、セナが本田宗一郎と抱擁して泣き崩れる、というシーンをTVか何かで見たのですが、そのDVDを探しています。情報下さい!!!内容に関してです。その内容の中に、セナがHONDAで優勝して、ピットに戻ってきた時に、本田宗一郎が、セナに「世界一のエンジンを作ってやるからな」と言って、セナが泣き崩れるシーンは含まれていますでしょうか。どのレースかは覚えていないのですが、宜しくお願いします。
ボンバーマン wrote on 2005年9月25日 at 2:58 AM:
以前アンケートにムカつくと書いた者です。あのコメントに反論した方も沢山いると思います。忘れたい訳ではありません。このHPを管理している方には申し訳ないのですが、なんかこのHPを面白くしている様な気がしてあの様なコメントを残しました。今でもこの方のHPやサンマリノGPを見ているとセナの事を思い出し涙が出てきます。1991年に初めて鈴鹿でセナを見ました。私にとってこれが最初で最後の姿となりました。まだ学生だったのでアルバイトをして旅費と予選限定チケット代を作り鈴鹿に向かいました。金銭的な余裕もなく車の中で2日間過ごし食事はカップラーメン4個でした。絶えられない位の空腹でしたがセナを見たかったので我慢しました。だから1994年の事に触れると辛くなるのです。私にとってセナは1991年のままであってほしいのです。反論した方の気持ちも理解出来ます。でも私の気持ちの理解してもらいたいものです。このコメントに対する皆さんの意見を聞かせて下さい。
おぜきてつや wrote on 2005年8月8日 at 1:51 PM:
1994年F1総集編、約10年VHSで見続けて先日やっとDVD化しました。永久保存です。「セナ・フォーエバー」DVD化したのでMDに録音しました。VTECのオデッセイで聞いてます。ホンダに乗り続けて20年。セナと同い年、セナとともに歩んでます。
たか wrote on 2005年7月24日 at 11:58 PM:
あれから11年セナと同じ年齢になり、命の大切に教えがわかるようになりました。いつまでも私の心の中でいつでも生きています。
モネ wrote on 2005年6月13日 at 6:20 PM:
充実したサイトですね。
セナの肉声を聞いたら、涙が出そうになりました。

こちらのHPをリンクさせていただきました。
不都合がありましたら、ご連絡下さい。

ありがとうございました。
しんた wrote on 2005年5月14日 at 7:51 PM:
素晴らしいサイトですね♪自分は最近F1に興味を持ち始めました。落合信彦氏の本にセナのインタビューが載っていて、偉大なるF1レーサーに興味をもちました。もっともっとセナのこと知りたいです。
masakyo-kawada wrote on 2005年5月13日 at 9:06 PM:
SENNAがいたから毎日をがんばれた。
SENNAがいたから毎日が楽しかった。
SENNAはいまでもみんなの心にいる。
今も・・・
センナン wrote on 2005年4月14日 at 6:59 PM:
このサイトを見て久しぶりに涙がこぼれました。
ルノーに乗ってからは正直あまりレースを見ていませんでした。
その日、ニュースを見て頭の中が真っ白になったことを覚えています。
今でもF1には興味がありますがセナがいた頃ほど力が入って
いないように感じています。
TKR wrote on 2005年3月9日 at 5:08 AM:
セナはF1の代名詞的な所があるし、やはり10代の頃夢中になって
F1を観戦していた頃が懐かしい。
今でもF1は観ていますがやはりシューが何回優勝を重ねようがやはり
セナが僕の中では永久に1番!
セナのレースに鎧PIPEPIPEYける熱い情熱は今も僕の中に残ってます!
kawami wrote on 2005年3月2日 at 5:55 PM:
最近になってパソコンを始めました(^_^;) きっとセナのページがある!と思って・・・検索したら、あった!
あの辛い事故の日の事は、今でもよく覚えています。
当時は、どんなに遅い時間でも、起きていて観てました。。
今では、録画ばっかし。そして漠然として観ているのです。
あのころの興奮とか、ヒヤヒヤ、ドキドキがないのです。
今でも、好きなドライバーは?と聞かれると、セナとしか答えられない。きっとこれからも自分の中に生き続けるでしょう。
MSGR376 wrote on 2004年12月8日 at 6:38 PM:
久々に1994サンマリノGPのビデオを観てみました。今年のF1は
佐藤琢磨の活躍など明るい話題が多くあったにも関わらず
10年前のあの悲しみはいつまでも変わらないのだと、一人涙して
おりました。あの頃はただただ「なぜ、セナが?」という気持ち
しかありませんでしたが、今思うとライバルプロストがいない
シーズンでセナのレース人生はあそこで終わるべくして終わったのだと、レースが人生の全てだったセナにとって人生を全うした
のだと思いました。
現に僕の心の中に今でもセナとの思い出は生き続けてるのです。
セナだけが好きだった方はF1から離れてしまいました。しかし
F1が好きでセナも好きな僕は悲しくてもF1を応援しつづけて
いました。これからもエキサイティングなレースをするニューヒーローを応援しようと思います!
セナ大好きです wrote on 2004年10月23日 at 9:30 AM:
今週末はブラジルGPですね。思い起こせばあれからもう10年たってたのですね。
ふとセナの事を検索したくなってたどり着きました。
あの頃F1とセナにはまりまくってた自分を思い出しました。
当時は殆ど全戦をビデオに録画していました。パシフィックGPの残りに当日のビデオを録画しています。
その日も録画の準備をしていたところ、ニュースジャパンで速報が入りあわてて録画スイッチを押しました。
今日、久々にその日の生放送のビデオを見ました。10年たってもやはり辛かったです。大破したマシンから降ろされた横たわって動かないセナ、担架に乗せられた後そこにはおびただしい出血の跡、それでもまた復活してくれるものと信じていました。

91年92年93年と鈴鹿に行きました。カメラのシャッターは自然とセナを捉えていました。300ミリのレンズをこのために買いました。
今でも部屋に飾っている写真があります。
それは93年、彼にとって最後の日本GP、最後の日本での優勝のレース。
その日、私はシケインの内側にいました。ファイナルラップで優勝を確信した彼は右手を突き上げてガッツセPIPEPIPEYーズをしてくれました。一瞬の事でしたがその瞬間シャッターを押していました。祈るような気持ちで現像に出しました。最高の写真でした。私の世界に一枚だけの宝物です。

それが彼を見た最後になってしまいました。

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Photo by Juan Pablo Donoso

思い出に残るレースは?

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リザルト

1984


Photo by PSParrot

念願だったF1入りはこの年、トールマン・ハートの新人ドライバーとして14戦に参戦し果たされた。1981年にイギリスF.F.1600クラス総合チャンピオンとなり、この頃から天才ドライバーとしてヨーロッパで注目され始める。1983年にはイギリスF3王者となり、F1入りの夢が現実になった。F3時代から「2位になるのは死ぬほどいやだ」と公言。予選で1位になりながら、本選ではクラッシュすることもしばしばあった。トールマン・ハートはマシンの総合力としてはとても優勝をねらえるチームではなかったが、それでも強引に上位を狙うセナのドライビングは高く評価された。

デビュー戦のブラジルGPはリタイヤしたが、2戦目の南アフリカGPではいきなり5位入賞。このとき、セナは疲労のためマシンに乗ったまま失神し、メカニックに助け出されるというエピソードを残している。

「F1にセナあり」を知らしめたのは、第6戦モナコGPであった。レースは豪雨のなかで決行され、クラッシュするマシンが続出したが、セナは抜群のマシン・コントロールでみるみる順位を上げ、2位に浮上した。しかしレースは赤旗でレースは中止、惜しくも初優勝をあげることはできなかった(詳細は「明暗を分けた豪雨のモナコ」を参照)。デビュー時からモナコのような難しいサーキットで、そのテクニックは輝いていた。この年の活躍で、翌1985年にロータスに移籍することになった。

Rd開催日開催地マシンエンジン予選決勝 
13/25ブラジルTG183Bハート L4ターボ16Rターボ・トラブル
24/7南アフリカ136 
34/29ベルギー196 
45/6サンマリノ28 予選不通過
55/20フランス13Rターボ・トラブル
66/3モナコTG184132 
76/17カナダ97 
86/24デトロイト7Rサスペンション・アーム
97/8ダラス6Rドライブ・シャフト
107/22イギリス73 
118/5ドイツ9Rアクシデント
128/19オーストリア10R油圧トラブル
138/26オランダ13Rエンジン・トラブル
149/9イタリア移籍問題で参戦せず
1510/7ヨーロッパ12Rアクシデント
1610/21ポルトガル33 

ドライバーズ・チャンピオンシップ: 9位(13ポイント)
平均獲得ポイント: 0.81

1985


Photo by Jerry Lewis-Evans

戦闘能力ではウィリアムズ、マクラーレン、フェラーリに劣るものの、やっと勝負になるマシンを得たセナは、早くも大物の片鱗をちらつかせる。初戦のブラジルGPはリタイヤしたものの2戦目のポルトガルGPで早くもF1初勝利を挙げる。しかも、ポール・ポジションからの優勝、そしてファステスト・ラップも記録するという完全優勝だった。「どうしてそんなに大騒ぎするんだい。僕は優勝するつもりでこのチームに来たんだ。まるで僕が勝てるとは思わなかったみたいじゃないか」と、セナは勝利に大喜びする監督のピーター・ウォーに対しジョークを飛ばしている。

その後、マシンの不調でなかなか勝てなかったが、それでもポール・ポジションはこの年通算7回も獲得し、13戦目のベルギーGPで2勝目を上げており、総合ポイントでも4位に入った。

この年優勝したのが、その後のライバルとなるアラン・プロストだった。マクラーレンTAGポルシェに乗って5勝を挙げ、初の世界チャンピオンとなっている。だが、そのプロストはセナの才能を当時から認めており、「セナはいつか私の強力なライバルになるだろう」と語っている。ロータスのマシンがもう少し熟成していたら、この年からセナはプロストをもっと脅かしていたに違いない。

Rd開催日開催地マシンエンジン予選決勝 
14/7ブラジル97Tルノー V6ターボ4R電気系トラブル
24/21ポルトガル11 
35/5サンマリノ17完走せず
45/19モナコ1Rエンジン・トラブル
56/16カナダ216 
66/23デトロイト1Rアクシデント
77/7フランス2Rエンジン・トラブル
87/21イギリス410完走せず
98/4ドイツ5RCV ジョイント・トラブル
108/18オーストリア142 
118/25オランダ43 
129/8イタリア13 
139/15ベルギー21 
1410/6ヨーロッパ12 
1510/19南アフリカ4Rエンジン・トラブル
1611/3オーストラリア1Rエンジン・トラブル

ドライバーズ・チャンピオンシップ: 4位(38ポイント)
ラップリーダー周回数: 270周(26.19%)
平均獲得ポイント: 2.375

1986


Photo by Dima Morozo

この年もアラン・プロストがマクラーレンTAGポルシェを駆って4勝を挙げ、総合チャンピオンとなった。セナは既に「F1界ナンバーワンの才能」と認められながらも、相変わらず戦闘能力の劣るロータスのマシンに悩まされ続け、どうしてもマクラーレンとウィリアムズのマシンには届かなかった。特にエンジンには不満を持ち、ホンダエンジンのうっとりするようなパワーでセナを追い抜くターボマシンを見て「ホンダのエンジンが欲しい」と強く思うようになっていた。

それでもスペインGPではナイジェル・マンセルの追撃をゴール寸前で振り切って優勝を果たし(詳細は、「大物の片鱗」を参照)、アメリカGPでもポール・トゥ・ウィンを決めている。マシンの力では完全に劣っていながら、マクラーレン、ウィリアムズの2強を脅かすそのスピードは全世界の注目を集めた。

ただ、セナ本人は「1周だけならルノーは申し分ないエンジンだよ。でもタイトルにはほど遠い。」と、ロータスサイドにエンジンの改良を求め続けた。その執念が翌1987年のホンダエンジンの獲得につながった。この頃から「セナは最強のマシンを与えたら誰も追いつけないだろう」と言われるようになった。

Rd開催日開催地マシンエンジン予選決勝 
13/23ブラジル98Tルノー V6ターボ12 
24/12スペイン11 
34/27サンマリノ1Rホイール・ベアリングの破損
45/11モナコ33 
55/25ベルギー42 
66/15カナダ25 
76/22デトロイト11 
87/6フランス1R 
97/13イギリス3R 
107/27ドイツ32 
118/10ハンガリー12 
129/20オーストリア8Rアクシデント
139/7イタリア5Rギヤシャフト・トラブル
149/21ポルトガル14 
1510/12メキシコ13 
1610/26オーストラリア3Rエンジン・トラブル

ドライバーズ・チャンピオンシップ: 4位(55ポイント)
ラップリーダー周回数: 135周(12.93%)
平均獲得ポイント: 3.438

1987


Photo by Dima Morozo

念願のホンダ・エンジンを獲得する。この前年の1986年からホンダはF1に本格参戦しておりウィリアムズにエンジンを供給していたが、中嶋悟と共にロータスにもエンジンを送り込むことになる。セナとホンダの歴史的な出会いであった。また中嶋悟もセナとジョイントし、初の日本人ドライバーのF1フル参戦を実現し、日本にとってもF1新時代のスタートとなった年である。

しかし、ロータスのシャシーは新しく導入したアクティブ・サスペンションが障害となり、ホンダのエンジンを活かしきれずにいた。さらにロータスは恒常的な資金難に悩まされており、ホンダとマクラーレンとの間には密かに交渉が進められていた。

セナはロータス・ルノー時代、1985年に7度、1986年にも8度のポール・ポジションを獲得しているが、この年はわずか1度のポール・ポジションしか獲得していない。それでも得意のモナコGPでは優勝、次のアメリカGPでも優勝と、初の2連勝をマークした。

ウィリアムズのネルソン・ピケが総合チャンピオンに輝き、ナイジェル・マンセルが2位。セナは3位に入り、プロストが4位という結果に終わった。しかし、セナは満たされていなかった。イタリアGPにおいて1988年マクラーレンのチーム体制が発表され、エンジンはホンダ、ドライバーはプロスト、セナのジョイント・ナンバーワン制になるというものだった。

Rd開催日開催地マシンエンジン予選決勝 
14/12ブラジル99TホンダV6ターボ4Rエンジン・トラブル
25/3サンマリノ12 
35/17ベルギー3Rクラッシュ
45/31モナコ21 
56/21デトロイト21 
67/5フランス34 
77/12イギリス33 
87/26ドイツ23 
98/9ハンガリー62 
108/16オーストリア75 
119/6イタリア42 
129/20ポルトガル57 
139/27スペイン55 
1410/18メキシコ7Rスピン
1511/1日本72 
1611/15オーストラリア4失格ブレーキダクト寸法の規定違反

ドライバーズ・チャンピオンシップ: 3位(57ポイント)
ラップリーダー周回数: 108周(10.70%)
平均獲得ポイント: 3.563

1988


Photo by JJ Adamson

セナにとっては歴史的な年となった。この年、ウィリアムズにエンジンを供給していたホンダがマクラーレンにパートナーをチェンジした。そして、ワールドチャンピオンのアラン・プロストにセナをジョイントさせ、最強のチームをつくったのである。

セナはプロストとジョイントNo.1という扱いを受けたが、本質的にはやはりプロストがナンバー1でセナがナンバー2だった。だが、セナは最速のマシンを得てその力を思う存分に発揮する。

この年、サンマリノGPから始まって8勝を挙げ、7勝のプロストを抑え、初のワールドチャンピオンに輝いたのだ(詳細は、「セナ、初栄冠」を参照)。このときの感激をセナは次のように語っている。「あの日フィニッシュラインを超えてレースに優勝した瞬間こそ、僕の生涯最高のときだった」。

しかし、このタイトルはプロストをいたく刺激し、その後のプロストとの長い確執を生むことになった。プロストは「ホンダは自分よりセナにいいエンジンを与えている」と批判し、セナを敵対視するようになる。それがF1全体を盛り上げる皮肉な結果になるのだが、セナの心は大いに苦しめられた。

Rd開催日開催地マシンエンジン予選決勝 
14/3ブラジルMP4/4.03ホンダV6ターボ1失格Tカー使用
25/1サンマリノMP4/4.111 
35/15モナコ1Rクラッシュ
45/29メキシコ12 
56/12カナダ11 
66/19デトロイトMP4/4.211 
77/3フランス22 
87/10イギリスMP4/4.531 
97/24ドイツ11 
108/7ハンガリー11 
118/28ベルギー11 
129/11イタリア110クラッシュで完走せず
139/25ポルトガル26 
1410/2スペイン14 
1510/30日本11 
1611/13オーストラリアMP4/4.212 

ドライバーズ・チャンピオンシップ: 総合優勝(90ポイント)
ラップリーダー周回数: 552周(53.64%)
平均獲得ポイント: 5.875

1989


Photo by madagascarica

1988年に初のワールドチャンピオンに輝き、いよいよセナ時代の到来か、と思われたが、この年はプロストにチャンピオンを奪われてしまう。セナはわずか3度のレースを除いて、すべてのレースでポール・ポジションを獲得しながら、本選では6度の優勝しか果たせず、4勝しかしていないプロストにタイトルを奪われてしまう。

衝撃的だったのは日本GP。タイトルを賭けて争っていたプロストとセナがシケインで衝突(詳細は「悪夢のシケイン」を参照)。プロストはリタイヤしたがセナは走り続けて1位でゴール。だが、シケインの通過マークをきちんと通過しなかったと判定され、失格になる。結局、この失格が尾を引いてセナはチャンピオンの座を明け渡すことになってしまったのだった。

この頃のプロストとセナの争いはヨーロッパ対非ヨーロッパの争いとまで言われ、大変な騒動を引き起こしていた。プロストはますますテクニックを発揮し、セナはスピードに打ち込む。そんな2人の図式が確立した年だった。

Rd開催日開催地マシンエンジン予選決勝 
13/26ブラジルMP4/5ホンダV10111 
24/23サンマリノ11 
35/7モナコ11 
45/28メキシコ11 
56/4アメリカ1Rイグニッション・トラブル
66/18カナダ27エンジン・トラブルで完走せず
77/9フランス2Rデフ・トラブル
87/16イギリス1Rスピン
97/30ドイツ11 
108/13ハンガリー22 
118/27ベルギー11 
129/10イタリア1Rエンジン・トラブル
139/24ポルトガル1Rアクシデント
1410/1スペイン11 
1510/22日本1失格シケイン不通過
1611/5オーストラリア1Rアクシデント

ドライバーズ・チャンピオンシップ: 2位(90ポイント)
ラップリーダー周回数: 487周(46.87%)
平均獲得ポイント: 3.75

1990


Photo credit: Driving.ca

この年、プロストがセナとのジョイント・ナンバーワンの扱いを蹴ってマクラーレンからフェラーリへ移籍し、とうとうセナとプロストの争いはドロ沼化する。戦闘能力としてはマクラーレン・ホンダがフェラーリより上だったが、フェラーリもマシンの出来が良く、二人の争いはまさに熾烈を極めた。

そして、また日本GPで事件は起きた。総合ポイントでトップを走るセナに逆転可能な位置まで追い上げてきたプロスト。すべては日本GPの結果にかかっていた。だが、第1コーナーのカーブでセナとプロストがスタート直後にいきなり衝突(詳細は「悪夢再び」を参照)。両者ともリタイヤであっさりとセナのワールドチャンピオンが決まってしまった。この時、セナは「1989年の報復としてわざとプロストにぶつけた」と非難され、非常に苦しい思いを味わう。だが、セナの速さはこの頃から神がかっており、たとえプロストが同じマシンに乗っていてもと手も届かなかった、というのは誰もが認める事実だった。

Rd開催日開催地マシンエンジン予選決勝 
13/11アメリカMP4/5BホンダV1051 
23/25ブラジル13 
35/13サンマリノ1Rホイール破損
45/27モナコ11 
56/10カナダ11 
66/24メキシコ320パンクで完走せず
77/8フランス33 
87/15イギリス23 
97/29ドイツ11 
108/12ハンガリー42 
118/26ベルギー11 
129/9イタリア11 
139/23ポルトガル32 
149/30スペイン1Rラジエター・トラブル
1510/21日本1Rアクシデント
1611/4オーストラリア1Rアクシデント

ドライバーズ・チャンピオンシップ: 総合優勝(78ポイント)
ラップリーダー周回数: 556周(52.85%)
平均獲得ポイント: 4.875

1991


Photo by Stuart Seeger

フェラーリは642のマシンの完成度をさらにアップさせており、マクラーレンのMP4/6がどこまで優位性を保てるか、というのが91年のシーズンだった。しかし、開幕のアメリカGPでセナは脅威的な走りを見せ、優勝。その後モナコGPまで4連勝する圧倒的な強さを見せた。プロストはこの序盤戦で闘争心を失い、フェラーリのスタッフ批判を繰り返し、結局、この後、1年間の休業を選択する。だが、セナもマクラーレンのシャシーに満足をしていなかった。マクラーレンのスタッフと何度か衝突し、次第に孤立を深めていった。

セナにとって最も嬉しかったのは母国ブラジルGPで初めて優勝したことだろう。今までどうしても勝てなかった母国での初勝利にセナは興奮して、表彰台では自らシャンパンをかぶって喜びを表現した。このレースで、セナのマシンのギアボックスが壊れ、最終的には6速しか使えない状態になっていた。それでもセナはマシンを操り、ゴールにたどり着いたのだった。

Rd開催日開催地マシンエンジン予選決勝 
13/10アメリカMP4/6ホンダV1211 
23/24ブラジル11 
34/28サンマリノ11 
45/12モナコ11 
56/2カナダ3R電気系トラブル
66/16メキシコ33 
77/7フランス33 
87/14イギリス24ガス欠で完走せず
97/28ドイツ27ガス欠で完走せず
108/11ハンガリー11 
118/25ベルギー11 
129/8イタリア12 
139/22ポルトガル32 
149/29スペイン35 
1510/20日本22 
1611/3オーストラリア11 

ドライバーズ・チャンピオンシップ: 総合優勝(96ポイント)
ラップリーダー周回数:466周(47.55%)
平均獲得ポイント: 6

1992


Photo by Iwao

三度のワールドチャンピオンに輝いたセナの最大のライバルである三度のチャンピオンの記録を持つプロストは1年間の休養を宣言しておりサーキットにはいない。セナにとって楽に勝てる1年だったはずだが、新たなライバル、ウィリアムズルノーが出現したのだ。ウィリアムズは回転と耐久性のいいルノーV10をスムーズに駆使するすばらしいマシンFW14を熟成させ、そのアクティブサスペンションは信じられない威力を見せつけていた。逆にこれまで絶対のポテンシャルを誇っていたマクラーレンはシャシーの熟成に苦しんだ。

結果、ウィリアムズルノーのナイジェル・マンセルが圧倒的な強さを見せ、セナは総合4位という屈辱を甘受することになってしまった。しかし、マンセルの6連勝を阻止したモナコGPの優勝は高く評価されるし、3勝を挙げ、F1グランプリを盛り上げた。この年、セナと6年間コンビを組んできたホンダがF1撤退を表明、セナは深い落胆に包まれた。そしてホンダをあっさりとあきらめたロン・デニスに対する不信感も募らせており、翌年の契約をマクラーレンと結ぶのかどうかもわからない状態であった。

Rd開催日開催地マシンエンジン予選決勝 
13/10南アフリカMP4/6BホンダV1223 
23/24メキシコ6Rトランスミッション・トラブル
34/28ブラジルMP4/7A3R電気系トラブル
45/12スペイン39スピンで完走せず
56/2サンマリノ33 
66/16モナコ31 
77/7カナダ1R電気系トラブル
87/14フランス3Rアクシデント
97/28イギリス3Rギヤボックス・トラブル
108/11ドイツ32 
118/25ハンガリー31 
129/8ベルギー25 
139/22イタリア21 
149/29ポルトガル33 
1510/20日本3Rエンジン・トラブル
1611/3オーストラリア2Rアクシデント

ドライバーズ・チャンピオンシップ: 4位(50ポイント)
ラップリーダー周回数: 95周(9.17%)
平均獲得ポイント: 3.125

1993


Photo by Martin Lee

F1のサーキットにプロフェッサーが戻ってきた(詳細は「新たなる対決のラウンド」を参照)。絶対の信頼性のあるマシン、ウィリアムズルノーをドライブする計画を立て、1年間サーキットを離れていたプロストが4度目のワールドチャンピオンをねらってカムバックしたのである。

それに対し、セナはマクラーレンとの契約がまとまらず、一戦毎のスポット参戦という不自由な形でのサーキット入りを余儀なくされた。マクラーレンが新しく手に入れたエンジンはフォードV8で明らかにルノーV10よりも劣るパフォーマンスしかみせられない。それでもセナはブラジルGP、ヨーロッパGPと2連勝し、プロストをあわてさせた。モナコGPでも、5連勝となる優勝を果たし、マシンにしがみついた。プロストに意地を見せた。しかし、やはり総合的な優位性には勝てず、結局、プロストが四度目のワールドチャンピオンになる。この年のオフ、マクラーレンからウィリアムズへの移籍を発表。再び、最強マシンを手に入れた。

しかし、FIAはこれまでウィリアムズの絶対的な優位を保っていたハイテク装備を禁止するレギュレーションの変更を発表した。

Rd開催日開催地マシンエンジン予選決勝 
13/10南アフリカMP4/8フォード V822 
23/24ブラジル31 
34/28ヨーロッパ41 
45/12サンマリノ4Rオイル漏れ
56/2スペイン32 
66/16モナコ31 
77/7カナダ818電気系トラブルで完走せず
87/14フランス54 
97/28イギリス45ガス欠で完走せず
108/11ドイツ44 
118/25ハンガリー4Rトラクション・コントロール・トラブル
129/8ベルギー54 
139/22イタリア4Rアクシデント
149/29ポルトガル4Rエンジン・トラブル
1510/20日本21 
1611/3オーストラリア11 

ドライバーズ・チャンピオンシップ: 2位(73ポイント)
ラップリーダー周回数: 290周(27.75%)
平均獲得ポイント: 4.563

1994


Photo by Ben Sutherland

レギュレーションの変更でセナのウィリアムズはもう絶対の存在ではなくなっていた。代わってベネトンのフォードが優位性を見せるようになっていた。

セナはブラジルGP、パシフィックGP、サンマリノGPとすべてポール・ポジションを奪いながら、本選ではリタイヤした。パシフィックGPをリタイヤで終わった後、「僕のF1はサンマリノから始まる」と意気込みを見せていた矢先の事故(詳細は「イモラの悪夢」を参照)だった。セナにとってライバルに成長したシューマッハは開幕2連勝と絶好調をアピールしていた。アクティブサスペンションを失ったウィリアムズは明らかに動揺していた。最強マシンを再び手に入れたはずのセナはこの誤算に心が落ち着かなくなっていた。

通算41勝はプロストに次ぐ2位(当時)だが、セナはこの記録を伸ばし、プロストを追い抜くつもりでいた。1994年のグランプリでセナがこの後どんなレースを見せ、シューマッハを追いつめていくかが焦点だった。

Rd開催日開催地マシンエンジン予選決勝 
13/27ブラジルFW16ルノー V101Rアクシデント
24/17日本1Rハッキネンと衝突
35/1サンマリノ1Rアクシデント

サンマリノGP中のクラッシュにより致命傷。18時40分、マジョーレ病院にて死亡。

HONDAの勝利記録


Photo by Tim Wang

1965ホンダメキシコGP(リッチー・ギンサー)
1967イタリアGP(ジョン・サーティース)
1984ウィリアムズアメリカGP(ケケ・ロズベルグ)
1985アメリカ東GP(ケケ・ロズベルグ)
ヨーロッパGP(ナイジェル・マンセル)
南アフリカGP(ナイジェル・マンセル)
オーストラリアGP(ケケ・ロズベルグ)
1986ブラジルGP(ネルソン・ピケ)
ベルギーGP(ナイジェル・マンセル)
カナダGP(ナイジェル・マンセル)
フランスGP(ナイジェル・マンセル)
イギリスGP(ナイジェル・マンセル)
ドイツGP(ネルソン・ピケ)
ハンガリーGP(ネルソン・ピケ)
イタリアGP(ネルソン・ピケ)
ポルトガルGP(ナイジェル・マンセル)
1987サンマリノGP(ナイジェル・マンセル)
フランスGP(ナイジェル・マンセル)
イギリスGP(ナイジェル・マンセル)
ドイツGP(ネルソン・ピケ)
ハンガリーGP(ネルソン・ピケ)
オーストリアGP(ナイジェル・マンセル)
イタリアGP(ネルソン・ピケ)
スペインGP(ナイジェル・マンセル)
メキシコGP(ナイジェル・マンセル)
ロータスモナコGP(アイルトン・セナ)
アメリカ東GP(アイルトン・セナ)
1988マクラーレンブラジルGP(アラン・プロスト)
サンマリノGP(アイルトン・セナ)
モナコGP(アラン・プロスト)
メキシコGP(アラン・プロスト)
カナダGP(アイルトン・セナ)
アメリカ東GP(アイルトン・セナ)
フランスGP(アラン・プロスト)
イギリスGP(アイルトン・セナ)
ドイツGP(アイルトン・セナ)
ハンガリーGP(アイルトン・セナ)
ベルギーGP(アイルトン・セナ)
ポルトガルGP(アラン・プロスト)
スペインGP(アラン・プロスト)
日本GP(アイルトン・セナ)
オーストラリアGP(アラン・プロスト)
1989サンマリノGP(アイルトン・セナ)
モナコGP(アイルトン・セナ)
メキシコGP(アイルトン・セナ)
アメリカGP(アラン・プロスト)
フランスGP(アラン・プロスト)
イギリスGP(アラン・プロスト)
ドイツGP(アイルトン・セナ)
ベルギーGP(アイルトン・セナ)
イタリアGP(アラン・プロスト)
スペインGP(アイルトン・セナ)
1990アメリカGP(アイルトン・セナ)
モナコGP(アイルトン・セナ)
カナダGP(アイルトン・セナ)
ドイツGP(アイルトン・セナ)
ベルギーGP(アイルトン・セナ)
イタリアGP(アイルトン・セナ)
1991アメリカGP(アイルトン・セナ)
ブラジルGP(アイルトン・セナ)
サンマリノGP(アイルトン・セナ)
モナコGP(アイルトン・セナ)
ハンガリーGP(アイルトン・セナ)
ベルギーGP(アイルトン・セナ)
日本GP(ゲルハルト・ベルガー)
オーストラリアGP(アイルトン・セナ)
1992モナコGP(アイルトン・セナ)
カナダGP(ゲルハルト・ベルガー)
ハンガリーGP(アイルトン・セナ)
イタリアGP(アイルトン・セナ)
オーストラリアGP(ゲルハルト・ベルガー)
2006ホンダハンガリーGP(ジェンソン・バトン)
2019レッドブルオーストリアGP(マックス・フェルスタッペン)

セナ裁判

第一審公判の概要

11997/02/20初公判。被告側が検察側の捜査ミスを指摘。
21997/02/28判事が被告側の抗弁を棄却。
31997/03/08検察側がセナの事故原因を説明。被告側が反論。
41997/03/11検察側は原因は「ステアリングシャフトの破損であった」と改めて指摘。
51997/03/12元F1ドライバーのマルティニが「マシントラブル以外にない」と証言。
61997/03/17検察側がブラックボックスが不当に持ち出されたと指摘。
71997/03/18検察側がFIA技術委員のチャーリー・ホワイティングを尋問。
81997/04/02検察側がウィリアムズ側の証拠隠滅した可能性を示唆。
9
10
1997/04/15
1997/04/16
検察側と被告側でステアリング・シャフトについて口頭弁論。
111997/05/13ステアリング・シャフトの破損について鑑定人が報告。
121997/05/14検察側が車載カメラについてFOCAのTVスタッフを尋問。
131997/06/02デーモン・ヒルが証言。
141997/06/03ウィリアムズ側の車載カメラの分析が不確実と判断される。
15
16
1997/06/25
1997/06/26
被告側がステアリング・シャフトの改造について関係者を尋問。
171997/07/03検察側がウィリアムズのメカニック関係者を尋問。
181997/07/04検察側が新たな車載カメラの映像を証拠として提出。
191997/07/09元サーキット関係者は「FIAの安全基準に合致していた」と証言。
201997/09/16判事が元F1ドライバーのアルボレートの証言内容を再確認。
211997/09/22検察側がウィリアムズのメカニックを尋問。
221997/09/23検察側がFIAおよびサーキット運営関係者を尋問。
231997/10/03ウィリアムズ、ヘッド、ニューウェーの欠席により5分で閉廷。
241997/10/28元テストドライバーのクルサードが異常はなかったと証言。
251997/10/29ウィリアムズ、ヘッド、ニューウェーが初出廷。
261997/11/07検察側が論告求刑。
271997/11/11被告側がポッジの無罪を主張。
281997/11/12被告側がサーキットは安全基準に違反していないと主張。
291997/11/14被告側が「ニューウェーが改造を指示した証拠はない」と主張。
301997/11/18被告側が検察側の分析は誤っていると主張。
311997/11/21検察側がテレメトリーのデータから被告側の主張を反証。
321997/11/26再度検察側が論告求刑。
判決1997/12/16被告6名全員に無罪の判決。

裁判に関わった人物

イモラ地方裁判所セナ裁判の舞台
ボローニャ検察局過失致死の容疑で6人を起訴
ウィリアムズステアリング・シャフト破損で過失致死の容疑
FIAコースの承認及びレースディレクターとして過失致死の容疑
SAGISコースの安全不備として過失致死の容疑
  
イモラ地方裁判所
裁判官 アントニオ・コンスタンツォ
 
ボローニャ検察局
検事 マウリツィオ・パッサリーニ
 
検察側鑑定人
ボローニャ大学工学部教授 フランチェスコ・ボンバローラ
アルベルト・ブッキ
ジャンパオロ・カッモローラ
ボローニャ大学工学部元学部長 エンリコ・ロレンツィーニ
イモラサーキット・コースディレクター ロベルト・ノセット
イタリア・オリンピック委員会医師 アントニオ・ダル・モンテ
元フェラーリ・エンジニア マウロ・フォルギエリ
トマソ・カルレッティ
元F1ドライバー エマヌエレ・ピロ
エレクトロニクス・エンジニア マルコ・スピーガ
イタリア空海軍研究所中佐 アンドレア・ハルガス
ボローニャ警察
ボローニャ検察局とともに事故を捜査
 
被告
ウィリアムズ・チーム
チーム代表 フランク・ウィリアムズ
チーム・テクニカルディレクター パトリック・ヘッド
元チーム・マシンデザイナー エイドリアン・ニューウェー
チーム弁護団
弁護士 オレステ・ドミニオーニ
ピーター・グッドマン
ステファン・グリーンウェイ
ニューウェー弁護団
弁護士 モレッリ
ルイジ・ストルトーニ
アレッシオ・ランツィ
チーム鑑定人
元フォルティ・テクニカルディレクター ジョルジョ・スティラーノ
アレニアスパッツィオ研究所エンジニア ロベルト・ヴィタリ
アウグスト・スッポ
FIA
FISA安全委員 ローランド・ブリューインセラード
弁護人
弁護士 ロベルト・カウゾ
 
SAGIS
社長 フェデリコ・ベンディネッリ
サーキットディレクター ジョルジョ・ポッジ
弁護団
弁護士 ロベルト・ランディ
ルカ・ビリンデッリ
フランチェスコ・パオロ・コッリーバ
マンリコ・ボネッティ
鑑定人
フォンドメタルテクノロジー・エンジニア ジャン・クロード・ミジョー
アルファコルセ・エレクトロニクスエンジニア アルビアーノ
ミラノ工科大学エンジニア ジャボット
マルキオンナ
医師 チッポラ・アブルッツィオ
 
主な証人
ペースカー・ドライバー マリオ・カゾーニ
ボローニャ警察署 ステファノ・ステファニーニ
元F1ドライバー ピエロルイジ・マルティニ
ミケーレ・アルボレート
ルノー・スポール・テレメトリーエンジニア デュフォール
イモラ・サーキット車検責任者 ファブリツィオ・ノスコ
FISA技術委員 チャーリー・ホワイティング
検死医 ミケーレ・ロマネッリ
検死医 ピエルロドピコ・リッチ
FOCA TV主任 エディ・ベーカー
FOCA TVキーディレクター アラン・ウーラード
FISA広報委員 フランチェスコ・ロンガネージ・カッターニ
F1ドライバー デイモン・ヒル

Go Karting

Go Karting
[1973]First victory – Interlagos(Sao Paulo) – 1st of July
[1974]Champion of Sao Paulo – junior category
[1975]Vice-Champion of Brazil – Junior category
Champion of the “Nacinal Italcolomy” tour – junior category
[1976]Champion of Sao Paulo – Second 100cc category
Brazil Championship, 3rd – Second 100cc ctegory
Winner of the “Three hours of go-karting” – Sao Paulo – First 100cc category
[1977]Champion of South America – Uruguay(Sao Jose) – Inter category
Vice-Champion of Brazil – Inter category
Vice-Champion of Sao Paulo – Inter category
Winner of the “Three hours of go-karting” – Sao Paulo – Inter category
[1978]World Championship, 6th – France(Le Mans) – Inter category
Japan Grand Prix, 4th – Sugo – Inter category
Champion of Brazil – Inter category
Winner of the “Three hours of go-karging” – Sao Paulo – Inter category
Vice-Champion of Sao Paulo – Inter category
[1979]World vice-champion – Portugal(Estoril) – Inter category
Vice-champiosn of South America – Argentina(San Juan) – Inter category
Champion of San Marino – Italy – Inter category
Winner of the 1st round – Champion of Brazil – Oberlandia(Mato Grosso) – Inter category
Switzerland Grand Prix, 2nd – Wholen – Inter category
Italy Grand Prix, 2nd – Parme – Inter category
Champions’Cup, 10th – Italy(Jesolo) – Inter category
[1980]Champion of South America – Inter category
Champion of Brazil – Inter category
World vice-champion – Belgium(Nivelles) – 135cc category
[1981]World Championship, 4th – Italy(Parme) – 135cc category
Champions’Cup, giving up(accident) – Italy(Jesolo)
Switzerland Grand Prix, Winner – Wholen – 135cc category
[1982]Porto Alegre Championship, Winner
World Championship, 14th – Sweden(Kalmar) – 135cc category
F.F.1600 – Van Diemen Minister RF81
[1981]
03/01Brands Hatch, 5th – P&O championship(Car:VDM RF80)
03/08Thruxton, 3th – T.T. championship
03/15Brands Hatch, Winner – 15 laps in 15’07″02 – T.T. championship
03/22Mallory Park, pole position, 2nd – T.T. championship
03/04Mallory Park, 2nd – T.T.championship
04/05Snetterton, pole position, 2nd – T.T. championship
05/24Oulton Park, Winner – 15 laps in 16’48 – Fastest lap in 1’06″02 – R.A.C. championship
05/25Malloly Park, Winner – 15 laps in 12’43″09 – T.T. championship
06/07Snetterton, Winner – 15 laps in 18’16″05 – Fastest lap in 1’22″02 – T.T. championship
06/21Silverstone, 2nd – R.A.C. championship
06/27Oulton Park, Winner – 15 laps in 16’49″05 – Fastest lap in 1’06″03 – T.T. championship
07/04Donington, WinnerFastest lap – R.A.C. championship
07/12Brands Hatch, 4th – Fastest lap in 50″62 – R.A.C. championship
07/25Oulton Park, Winner – 15 laps in 16’59″07 – Fastest lap in 1’06″04 – T.T. championship
07/26Mallory Park, Winner – 15 laps in 12’44″04 – Fastest lap in 50″01 – R.A.C. championship
08/02Brands Hatch, Winner 15 laps in 12’58 – T.T. championship
08/09Snetterton, Winner – 15 laps in 19’19″89 – Fastest lap in 1’11″06 – R.A.C. championship
08/15Donington, Winner – 12 laps in 16’13″73 – T.T. championship
08/31Thruxton, pole position, Winner – 10 laps in 14’28″07 – Fastest lap in 1’25″07 – T.T. championship
09/29Brands Hatch, 2nd – Fastest lap – T.T. championship
Returned to Brazil before the end of championship
Final classification – Towsend-Thoresen(T.T.) championship
1st – Senna da Silva 210 points
2nd – Morris 156 points
3rd – Toledano 155 points
F.F.2000 – Van Diemen Nielson RF82
[1982] European championship
04/18Zolder(Belgium), pole position, giving up(engine broken)
05/02Donington(G.B.), pole position, Winner – 20 laps in 24’57″47 – Fastest lap, New record in 1’14″28
05/09Zolder(Belgium), pole position, giving up(track exit)
06/20Hockenheim(Germany), pole position, giving up(formation lap)
07/03Zandvoort(Netherlands), pole position, Winner – 12 laps in 20’08″03
08/08Hockenheim(Germany), pole postion, Winner – 11 laps in 26’59″20 – Fastest lap
08/15Zeltweg(Austria), pole position, Winner – 12 lpas in 24’21″32 – Fastest lap
08/22Jylland(Denmark), pole posiotion, Winner – 8 laps in 19’34″96 – Fastest lap
09/12Mondello Park(Ireland), pole position, Winner 20 laps in 19’32″71 – Fastest lap, New record in 57″92
Winner of the European F.F.2000 Championship
F.F.2000 – Van Diemen Nielson RF82
[1982] British Championship
03/07Brands Hatch, pole position, WinnerFastest lap
03/27Oulton Park, pole position, WinnerFastest lap and New record
03/28Silverstone, pole postion, WinnerFastest lap and New record
04/04Donington, pole position, WinnerFastest lap and New record
04/09Snetterton, pole position, WinnerFastest lap
04/12Silverstone, pole position, WinnerFastest lap
05/03Mallory Park, WinnerFastest lap
05/30Oulton Park, withdrawal(types problems)
06/06Mallory Park, WinnerFastest lap
06/13Brands Hatch, pole position, WinnerFastest lap and New record
06/26Oulton Park, pole position, Winner
07/05Snetterton, pole position, Winner
07/10Castel Combe, pole position, WinnerFastest lap and New record
08/01Snetterton, pole position, WinnerFasteset lap and New record
08/30Thruxton, WinnerFastest lap and New record
09/04Oulton Park, pole position, Winner
09/05Silverstone, pole position, WinnerFastest lap
09/26Brands Hatch, 2nd – Fastest lap and New record
Back to Brazil before the end of the championship
Final classification – British championship
1st   Senna da Silva 378 points
2nd   Fish 297 points
3rd   Andrews 203 points
Formula 3 – Ralt Toyota Nicholson RT3 D/82
[1982]
11/13Thruxton T.V., pole position(record), Winner – 15 laps in 18’37″43 – Fastest lap
Formula 3 – Ralt Toyota Novamotor RT3E
[1983] UK championship
03/06Silverstone, 2nd time(practice), Winner – 20 laps in 18’07″14 – Fastest lap
03/13Thruxton, pole position, Winner – 20 laps in 26’36″31 – Fastest lap
03/19Silverstone, pole position, Winner – 12 laps in 19’36″51 – Fastest lap
03/27Donington, pole position, Winner – 20 laps in 23’23″35 – Fastest lap
04/02Thruxton, pole position, Winner – 20 laps in 25’03″29
04/24Silverstone, pole position, Winner – 25 laps in 22’33″59 – Fastest lap
05/02Thruxton, pole position, Winner – 20 laps in 24’51″88 – Fastest lap
05/08Brands Hatch, pole position, Winner – 20 laps in 17’21″06 – Fastest lap
05/30Silverstone, pole position, Winner – 30 laps in 27’00″98 – Fastest lap
06/11Silverstone(European championship), 2nd time(practice), giving up(track exit)
06/19Caldwell Park, pole position, withdrawal(accident)
07/03Snetterton, 4th time(practice), giving up(accident) – Fastest lap
07/16Silverstone, pole position, Winner – 20 laps in 28’59″55 – Fastest lap
07/24Donington, pole position, 2nd – Fastest lap
08/06Oulton Park, 2nd time(practice), giving up(accident) – Fastest lap
08/29Silverstone, pole position, Winner – 30 laps in 27’02″45
09/11Oulton Park, pole position, giving up(accident)
09/18Thruxton, pole position, giving up(engine broken)
10/02Silverstone, 4th time(practice), 2nd
10/23Thruxton, pole position, Winner – 15 laps in 18’39″78 – Fastest lap
Final Classification – British Championship
1st – Senna da Silva 132 points
2nd – Brundle 123 points
3rd – Jones 77 points
11/20 Macao Grand Prix, pole position, Winner – 30 laps in 1h11’34″96 –
1st round, Winner – 15 laps in 35’44″65 – Fastest lap and New record : 2’21″59

2nd round, Winner – 15 laps in 35’50″31

セナ・プロスト対決

セナを語る時に欠かせないのが、「アラン・プロスト」というドライバーである。彼もまたセナとは違ったタイプであるが天才ドライバーの一人である。セナが「速い」ドライバーなら、プロストは「巧い」ドライバーである。プロストは緻密で正確なレース運びにより、16戦を通してチャンピオンを獲得するためのレース運びをする戦略家であり、これがプロフェッサーと呼ばれる所以である。
二人の天才ドライバーは、時に罵り合い、憎み合いながらも、お互いを認め合うまさに「ライバル」という言葉にふさわしい存在であった。

1984年3月25日 ブラジルGP
セナとプロストの初対決

1983年にイギリスF3選手権に初挑戦し、全21戦中13勝と圧倒的な強さでタイトルを獲得したセナは、この年の夏、ウィリアムズ、マクラーレン、ロータス、ブラバムといった一流チームのオファーを受けてテスト・ドライブや契約交渉などを行っている。しかし、現実は厳しく、各チームの加入の条件には多額のスポンサー料持ち込みや完全ナンバー2扱いといったものであった。唯一、納得できる条件を提示したのが新興チーム、トールマンである。1984年開幕戦ブラジルGP。セナは自国のレースで、決して一流とは言えない同チームからF1デビューを飾った。

一方のプロストはルノーと訣別し、このシーズンからマクラーレンへと移籍している。予選16番手からスタートしたセナは、ターボ・チャージャーのトラブルによりたった8周でリタイヤし、地元での初レースは散々な結果に終わった。当時、時代はターボ全盛。トールマンもハート製のターボエンジンを使用していたが、速さ、信頼性ともにいまひとつのエンジンだった。セナはシーズンを通してこのエンジンに泣かされることになる。逆にプロストはTAGポルシェという最強の武器を手にして、この年チームメートのニキ・ラウダと熾烈なタイトルを争いを繰り広げた。セナのデビュー・レースを制したのは他ならぬプロスト。トップにたったドライバーが続々とリタイヤする中、生き残っての優勝というプロストらしいレースを披露している。

1984年6月3日 モナコGP
明暗を分けた「豪雨のモナコ」

1984年第6戦モナコGPを語らずして、セナをそしてセナとプロストを語ることは出来ない。決勝は豪雨の中で決行された。そのためクラッシュするマシンが続出したが、予選13番手からスタートしたセナは、抜群のマシン・コントロールを発揮してみるみる順位を上げていく。19周目には2位まで浮上し、ポール・ポジションからスタートしたプロストに詰め寄る。その時点でプロストとの差は35秒以上あったが、セナは1周あたり3秒ペースでその差をも縮めていく。ところが32周目に入り、突然、競技委員長のジャッキー・イクスがレースの中止を告げるレッドフラッグを振った。すでにスピードダウンしていたプロストのわきをセナが猛スピードで駆け抜けていく。一瞬、セナの大逆転、F1参戦6戦目での初勝利かと思われた。

結局レースは最終ラップの前周、31周目の順位で決定されることとなり、セナのF1初勝利は幻に終わった。あと46周もの周回数を残していたことや、フラッグのタイミングなど、トールマン関係者のみならず抗議の声が上がる結果だった。しかし、そのファイトとテクニックに溢れたセナの走りには大きな称賛がよせられた。また「優勝をもらった」とされるプロストだったが、この年たった0.5ポイント差でラウダにタイトルを奪われている。ポール・ポジションから順調なレース運びをしていただけにこのレースがハーフポイントでなければとも言え、結果的には両者痛み分けの状況だった。

1986年4月12日 スペインGP
大物の片鱗

この年もマクラーレンのプロストが4勝をあげて総合チャンピオンとなった。しかし、シーズン毎にプロスト、ピケ、マンセルといった当時のトップドライバー達を脅かす存在になりつつあり、予選ではその速さを遺憾なく発揮し、8度のポールポジションを獲得する。しかし、本選ではポルシェやホンダのエンジンにはかなわないレース展開が繰り返された。それでも劣勢に立たされていたルノーエンジンでこの年2勝をあげている。

そのうちの1勝がヘレスで初めて行われたスペインGPである。ポールポジションからスタートしたセナは、ピケ、マンセル、プロスト、ケケ・ロズベルグといった強豪を抑え、非力なマシンでトップを死守する。この年、最強のホンダエンジンを手に入れていたウィリアムズのマンセルは燃料を節約するためレース序盤でスピードがあがらなかったが、30周目から脅威の追い上げに入り、プロスト、ピケを一気に抜き去り、40周目にはついに周回遅れに手間取っていたセナを抜いてトップに躍り出た。しかし、マンセルは残り9周でタイヤ交換のためピットイン。再びセナがトップに立ち、20秒のアドバンテージを得た。セナの楽勝かと思われたが、フレッシュタイヤに交換したマンセルは、3位でレースに復帰するとプロストを残り2周でパス。セナとの差は5.3秒まで縮まっており、マンセルがファイナルラップに入ったときには、さらに3.8秒を縮め1.5秒差まで迫っていた。鬼神の走りを見せるマンセルはついに最終コーナーでセナに並ぶ。セナもアクセル全開でフィニッシングラインを駆け抜ける。その差はわずか0.014秒。並み居る強豪を抑えて勝利した価値ある1勝だった。

レース後、セナとのバトルはなかったプロストが、マンセルを数周抑えてしまったことに対してマンセルにこう語ったとされている。「君が僕を抜こうとしたとき、もっとすんなり先を行かせてやればよかったよ。そうすればセナを抜けたかもしれないな」

1988年5月1日 サンマリノGP
セナ・プロスト時代の幕開け

1988年。マクラーレンのマシンにホンダ・エンジンが積まれ、それをプロストとセナがドライブするという最強のチームが誕生した。統制のとれた組織力を持つマクラーレン。前年ウィリアムズにドライバーズ、コンストラクターズの両タイトルをもたらす原動力となったホンダ・エンジン。F1史上最多(当時)の28勝を誇るプロスト。既に16回ものポールポジションを獲得しているセナ。三拍子どころか、四拍子揃った完璧なチーム体制である。開幕戦のブラジルGPはセナが失格するという思わぬハプニングがあったものの、続くサンマリノGPは見事なパーフェクトウィン。予選ではセナ、プロストが3位に2秒以上の差をつけてフロント・ロウを独占。決勝では3位を周回遅れにする圧倒的な速さでセナが勝利を収めた。いよいよセナ・プロスト時代の幕は上がった。

1988年9月25日 ポルトガルGP
確執の発端

1988年のマクラーレンは明確にジョイント・ナンバー1制を表明してシーズンに臨んでいた。そして、マクラーレンだけがずば抜けた強さを誇っている以上、当然2人のドライバーだけがタイトル争いを繰り広げることになる。ここまで抜群のチームワークで1位と2位を分け合ってきたかに見えたセナとプロストが、相手がタイトル争いの「敵」であることをはっきりと打ち出したのはポルトガルGPだった。6戦ぶりにポールをとったプロストだったが、スタート直後にセナにトップを奪われる。しかし、1周目の終わりにプロストはホームストレートで再びセナに並ぶ。セナは幅寄席してピットウォール側へと押し込めた。

実は、オープニングラップでイン側のスターティング・グリッドからスタートしたプロストは、スタート直後にセナをコース外側へはじき出すような幅寄せを行っており、これが1周目終わりのセナの行為を誘発したとも言われている。プロストはこのバトルに打ち勝って1位でフィニッシュ。セナはトラブルを発生させ6位という結果に終わったが、これが2人の確執の始まりとなった。

1988年10月30日 日本GP
セナ、初栄冠

もはや伝説と化していると言っても過言ではないのが88年の日本GPだ。前戦のスペインGPを終了してプロストのポイントは90点(うち当時採用されていた有効ポイントでは84点)。一方のセナは79点。セナが初のドライバーズチャンピオンになるためには、どうしてもこのレースで優勝しなければならなかった。

予選ではたったひとり1分41秒台というスーパーラップをたたき出してポールを獲得したセナだったが、決勝のスタートでエンジンをストールさせてしまう。緩やかな下り坂になっている鈴鹿のホームストレートのおかげで、なんとかマシンは動き出したものの、あっという間に十数台のマシンが抜き去っていく。

トップを行くのは予選2位からスターとしたプロストである。しかし、手負いの獅子と化したセナは、ここからすさまじい追い上げを見せる。1周目の終わりには早くも8位まで浮上。降りだした雨をむしろ見方につけて11周目には3位、20周目にはプロストの背後までやってきた。27周目、プロストはシケインで周回遅れに出会い、最終コーナーの立ち上がりに手間取った。すかさずセナはプロストの背後から抜け出し、ついに1位へと躍り出た。セナ1位、プロスト2位でレースはフィニッシュ。こうしてセナは念願の初タイトルを手にしたのだ。5年目のシーズン、デビューから78戦目。セナにふさわしい極めてドラマチックな初タイトル獲得だった。

1989年4月23日 サンマリノGP
破られた紳士協定

ターボエンジンが禁止されNAエンジン元年となった1989年、セナとプロストはシーズン序盤から激しいせめぎ合いを展開した。当初2人の間では、共倒れを防ぐため「スタートで前に出た方が先に1コーナーに進入する権利を持つ」という紳士協定があったという。

ところが第2戦サンマリノGPで早くもこの協定が破られる。スタート直後、予選2位からトップにたったプロストを、セナが抜き返しそのまま1コーナーへ飛び込んだのだ。レースはそのままワン・ツー・フィニッシュで幕を閉じたが、プロストはセナへの非難を公言。セナに言わせれば「スタートを切ったあとにこちらが前に出たのに、それをまたわざわざ譲って先に行かせるなんて!そんなばかげた約束をした覚えはないよ」ということになる。このシーズンもマクラーレン・ホンダはダブルタイトルを獲得するに至るのだが、結果とは裏腹に、チーム内は2人の確執に悩まされ続けることになる。

1989年10月22日 日本GP
悪夢のシケイン

最も恐れていた事態が1989年の日本GPで現実のものとなってしまった。またしてもセナ、プロストだけがタイトル争いをするシーズンとなり、その決着は鈴鹿でつけられることになった。シーズン終盤に入ってから不運なリタイヤが続いていたセナは日本、オーストラリアと連勝するしかない。逆にそんな立場のセナや、チーム体制、エンジンについて非難を続けてきたプロストが、圧倒的に有利な立場にいるという何とも皮肉な形で決戦の日はやってきた。予選2位から好スタートを切ったプロストは、快調なペースでトップを走る。セナも必至で追いすがるものの、追い抜くには至らない。運命の47周目、場所はシケイン。ここしかないとばかりにセナはプロストのインをつく。プロストも一歩も引かず2台は絡んでストップ。セナは再び走り始めたものの失格。そればかりか危険なドライバーというFIAからの裁定まで下されることになる。

1990年9月30日 スペインGP – 「プロフェッサー」面目躍如

1990年、プロストは長年在籍したマクラーレンからフェラーリへと移籍。2人はチームを分かれて3度目のタイトル争いを繰り広げることになった。重いV12エンジンで加速性能に難があるものの、操縦性が良く、プロスト加入でさらに戦闘力を高めたフェラーリ。ホンダの究極のV10エンジンとその能力を100%引き出せるセナがいるものの、操縦性の悪さを指摘されるマクラーレン。そうした構図で1990年シーズンの戦いは進んだ。

13戦を終えてセナは6勝、プロストは4勝。第14戦スペインGPでセナが勝てば、日本GPを待たずしてセナ2度目のドライバーズチャンピオンが決定する。前年は逆にプロスト絶対的有利でシーズンは終盤を迎えていた。スペインGPの舞台、へレスサーキットはテクニカルな中速コース。予選ではドライバビリティに優れたフェラーリが有利と見られていた。しかし、ポールを獲得したのはセナのほうだった。なんとか予選2位を確保したプロストはレースセッティングにすべてを賭けて決勝に臨んだ。明暗を分けたのは26周目のタイヤ交換だった。トップを行くセナの背後につけていたプロストだったが、先にピットイン。セナも次の周には迅速なピットワークでタイヤ交換を済ますが、コースに戻ったときプロストが一瞬前に出た。プロストはタイトルへの執念を落ちついたレース運びに変え、セナを抑えきって優勝。その発言や政治的な動きで評価を落としつつあったプロストが本業で名誉を挽回したレースだった。

1990年10月21日 日本GP
悪夢再び

同じ鈴鹿の、同じセナ、プロストの接触でありながら、1989年とは違うショッキングさを持っていたのがこの激突である。予選では、ポイント上でも絶対的優位にあるセナがひとり1分36秒台でポールポジションを獲得。追うプロストも2位にはつけたものの、優勝するかセナを抑えての2位入賞で、ようやく最終戦にタイトル争いを持ち込めるという苦しい状況である。しかし、決勝のスタートでプロストは好ダッシュ。不利なプロストがセナの前に出たことでスリリングなレース展開を予感させた。しかし、次の瞬間、セナが強引にプロストのインをつく。2台は接触してもつれ合うように1コーナーの外へとコースアウトした。あっけなく、後味の悪い形でセナ2度目のドライバーズチャンピオンが決定した。

これまで、特に日本人の一般的なファン感情として「逆境にもめげないフェアプレー精神の持ち主」といったイメージで捉えられてきたセナである。故意ではなかったとしても、この結果に失望したファンも少なくなかった。ただし、こうした「欲しいものはなにがなんでも奪う」といったエゴイスティックな本能を呼び覚ましたのは他ならぬプロストだったとは言えないだろうか。プロストによる様々な形でのセナへの「攻撃」が、セナのなかに眠っていた「プロスト的要素」を引き出してしまったということだ。あるいは、あのような瞬間には名誉やお金やタイトルではなく、とにかく目の前の獲物に飛びついてしまう本能をセナも持っていたということなのかもしれない。いずれにしても、この一件を契機にセナもかなりエゴイスティックな感情を剥き出しにするようになったことは間違いない。

1991年7月28日 ドイツGP
プロスト解雇


1991年に入るとフェラーリは精彩を欠くようになる。プロストは3回の2位入賞があったものの、一度も優勝を手にすることができなかった。強いてセナとの対決を挙げれば、プロストの地元フランスGPでの2位、3位争いということになる。

プロストらしさが全く感じられなかったのはこの年のドイツGP。フェラーリが今シーズン投入した642は明らかに失敗作だったが、フランスGPから投入されたニューマシンの643により戦闘力は向上し、フランスGPでは今シーズン初めてプロストが予選、決勝ともにセナを抑えることに成功している。一方、セナは前半戦こそ開幕4連勝と圧倒的な強さを見せたものの、カナダGPでシーズン当初から熟成が進んでいたウィリアムズにフロント・ローを独占されて以来、マクラーレンのアドバンテージはなくなり、常にウィリアムズがレースの主導権を握るようになる。ドイツGPでも同様、ウィリアムズのマンセルとパトレーゼが悠々と1位、2位を独占して後続を突き放すレースを展開し、その後ろでセナとプロストのバトルが展開された。隙あらば前に出ようとするプロストと、懸命に抑えるセナ。スタート直後から続いたバトルは、残り8周となった38周目にプロストがしびれを切らしたように、シケイン進入でアウトからセナを抜きにかかった。しかし、セナはそれをブロック。その結果、プロストはシケインを通過できずショートカットを試みるが、後続車がいたためにマシンを止めてしまった。プロストは明らかに速いマシンだったにもかかわらず、一度もセナを抜くことなくリタイヤするという「プロフェッサー」とは思えない走りをさらけ出してしまった。プロストは、レース後にテレビ番組で「セナは危険なドライバー」であるというコメントはしたものの、セナとのバトルで完全な敗北を喫したことは誰の目にも明らかだった。

昨シーズンが16戦中4度しかなかったリタイヤが、今シーズンは7度も記録し、プロストは走らないマシンを常に批判し続けた。そして10月29日、最終戦を待たずプロストは突然解雇されることになった。結局翌シーズンのシートも確保できず1992年は休養することとなった。

1992年10月20日 日本GP
ライバル不在のシーズン

1992年、セナはプロスト不在のシーズンを迎える。プロストはフェラーリを去り、1年間の休養生活に入っていた。前年に通算3度目となるワールドチャンピオンを獲得したセナの独壇場になると思われたシーズンだったが、主役はウィリアムズ・ルノーだった。ウィリアムズは史上最強のアクティブ・サスペンションを開発し、圧倒的な強さで他チームの追随を許さず、開幕戦の南アフリカGPからサンマリノGPまで5連勝を遂げていた。6戦目のモナコGPではモナコマイスターの称号にふさわしい意地を見せ、マンセルの6連勝を阻止したものの、セナの力を持ってしてもマシン性能の差は埋めることができなかった。シーズンを通してマシンに苦しめられたセナだったが、追い討ちを掛けるように9月に長年共に戦ってきたホンダのF1撤退が発表された。ホンダの母国最後のグラプリをいい形でフィニッシュさせたかったセナだったが、3周目でエンジン・トラブルによりあえなくリタイヤ。今シーズンのマクラーレン・ホンダの不調を象徴するようなレースだった。

ホンダのいないマクラーレンでは戦えないことを誰よりも良く知っていたセナは、圧倒的な強さを見せたウィリアムズのシートを望んでいた。しかし、1993年のウィリアムズのシートを獲得していたのは、宿敵プロストだった。

1993年3月10日 南アフリカGP
新たなる対決のラウンド

ホンダ・エンジンを失ったマクラーレンでセナは苦しいシーズンを迎えることになった。1993年、開幕戦南アフリカGP。プロストはブランクを感じさせない走りで復帰第1戦に勝利。しかし、セナも非力なカスタマー仕様のフォードV8を搭載するマクラーレンで2位という健闘を見せた。続くブラジルGPでは、天が味方したような劇的な展開でセナが優勝。さらにヨーロッパGPでは天候に翻弄されためまぐるしいレースを、またしてもセナが制した。

しかしヨーロッパGP直後に、プロストが「セナ達の勢いは長続きしない!夏の戦いを見てくれ」と言ったように、セナは総合力で勝るウィリアムズには歯が立たず、モナコGP以降、日本GP、オーストラリアGPでの優勝を除けば表彰台にすら上れなかった。ただ以前のように政治的な駆け引きなどなく、レースで実力をぶつけ合う、新たなる局面を迎えるシーズンとなった。

1993年11月3日 オーストラリアGP
和解

セナとプロストはそのドライビングだけではなく、互いの人生観、価値観すべてをぶつけ合い、憎しみ合った。その象徴が1990年日本GPでも衝突事件だったのである。この事件は二人の確執のすべてを象徴していたと言っていい。レースのライバルだけではなく、政治の世界でもぶつかり合ったのである。だが、この1990年のレースでセナはF1界からトップレーサーとして認知され、プロストはその地位を失った。そしてその後、セナはF1界の王者として君臨する。しかし、プロストのしぶとさは想像以上で、1992年の1年間は休養したものの1993年のウィリアムズのシートを獲得、マシン的に劣るセナに打ち勝ち、4度目のワールドチャンピオンを獲得してしまったのである。

だが、セナにとってプロストの存在は皮肉にも自身の勝利への意欲を最もかき立ててくれるものだった。1993年のシーズン、既にチャンピオンが決定した最終戦のオーストラリアGPで、セナが最後の意地を見せ、プロストを抑え、優勝した時、プロストは心からセナを祝福し、セナも「二度とプロストを批判することはないだろう」と語った。セナはプロストとの戦いの中でF1の技術を磨き、人間的な成長を遂げていったのである。

1994年になってプロストはルノーと契約を結び、ルノーの自家用車の宣伝広報の仕事に就き、ウィリアムズ・ルノーのマシンを駆るセナと同僚となった。セナの最終戦となったサンマリノGPに、実はプロストもルノーの一員として顔を出している。予選走行中のセナに、プロストは無線で呼びかけた。「やあセナ、調子はどうだい。そろそろ勝ってくれよ」この時、セナは次のように語った。「アラン、君がいなくなって本当に寂しいよ」。